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2022.10.23
約41年間の歩みNO.22
私はオフィスでの立場がだんだん小さくなって行くのを感じていました。
本社からも尋問のような聴き取りがあり不安定な状況が続きました。
新人は成績が優秀でしたので会社としても大切にしたかったのだと思いま
す。
その時の私にできることは、やるべきことをやるだけ・・・
そう心を切り替え、できるだけ平静を保とうと努力しました。
ベテランの方々の助けも得て元気を取り戻していったのです。
そして、次に私に元気を与えてくれたのは本社の全国新人研修のサポート
業務でした。
3ケ月に一度は自ら希望し本社までサポートに行きました。
そこで得た知識や経験を自分の組織で活かしたいとも考えていました。
その時の本社研修スタッフは熱意の塊みたいな方ばかりだったと記憶して
います。研修チームのトップは「こんなにロジカルに納得行く話ができる
人っているんだ!」と思うような素晴らしい講師でした。
数年後には独立されて会社から離れてしまいましたが会社にとって大きな
財産を残してくれたと思っています。
この時期は、辛い経験もしましたが、それ以上に心が豊かになる経験をす
ることができたと感謝しています。
全ての出来事は私が成長するためにあったのだと今なら思えます。
2022.10.22
約41年間の歩みNO.21
私は会社が「誰もが働きたい会社」を目指して大きく舵を切ったことを実感しました。
そして、少なくても私の組織は年配者も若年者も男性も女性も同じ方向を向いていたと
確信しています。
会社のビジョン、ミッション、バリューが明確で誰も疑いようがなかったのです。
オフィス内のディスクなども一新され明るく爽やかになりました。
と同時に採用の考え方が大きく変わり、年間4名の採用でOKとなりました。
それまでは組織を拡大するために1人でも多く採用することが求められており、毎月
採用数に追われていたように思います。
ただ、採用数は求めないが質に拘るというのがコンセプトでした。
その為に、採用候補者の情報を集め、電話でアポイントをとり、ホテルのラウンジ等
で会い、ファーストアプローチをする。その際のマニュアルがあり、ロープレを重ね、
次のステップであるキャリア オポチュニティ プログラムのセッションに繋げることを
目指してマネージャーにとって最も重要な活動と位置づけていました。
私は忠実に守りながら活動したつもりでしたが、入社後長く続かなかったり成績が振る
わなかったりで苦戦していました。
そんな状況が続いていた時に事件が起きました。
新人の一人が私に不満を抱き本社に訴えたのです。
私は本社で実施していた全国新人研修にほぼ毎月のようにサポートで行っていたので即
情報を得ました。
その時はいきなり本社に訴えられて強い憤りを感じましたが、ここで腹を立てて大事に
する気にもなれませんでした。この人がそう感じたのだから否定しようがないわけです。
つまり、私が仕事をしていないと言うわけです。
新人の考える仕事と私が優先している仕事が違ったわけです。
ただ、ここでの失敗は相手に理解してもらうまで話し合わなかったことでした。
問題を放置したままになっていたのです。
その状況が本社の私への評価に影響していることを、その時私は気付いていませんでした。
2022.10.21
約41年間の歩みNO.20
ユニットマネージャーとしてスタートしたのが2003年4月1日のことです。
権限や会社からの情報量は極端に減りましたが日々のルーティーン業務は
殆ど変わりません。ですが採用、教育、育成に対する考え方がガラリと変
わりました。
そして一番変わったのは営業教育の在り方、トレーニングの考え方、営業
手法でした。
それまでの新人営業職員に対しての研修は契約募集ができる最低限の資格
を得るための一般過程試験に合格することを目指した研修でした。
ですので、講義や模擬テストが中心でした。
無事合格後は商品勉強です。数多の商品から代表的な商品をパンフレット
や約款を使って教えていました。
その新人初期研修が大きく変わったのです。
それまでは入社した拠点だけでの研修でしたが試験合格後の翌月には全国
の新人営業職員が東京本社に集まり合宿研修のような形態で集合研修が行
われるようになりました。
その研修はロープレ中心の実践的研修であり当初は夜遅くまで本人が納得
するまでロープレが繰り広げられていました。
当時の主力商品であるユニバーサル保険を販売する為にお客様の購入心理
に沿ってアプローチフリップ(紙芝居のようなもの)が全職員に提供され、
そのフリップを使いながら、いかに自分の言葉で会社や自分の想いを伝え
られるかを繰り返し練習したのでした。
私は、まさに目から鱗が落ちる状態で、心の底からワクワクが止まらない
気持ちでいっぱいだったのを昨日のことのように覚えています。
また、ユニットマネージャーの研修も新設されました。
新人研修が変わったのですから当然の流れではありましたが・・・
ここで改めてコーチングの基本を学んだのです。
今までは営業の方々に業績の見込み状況をメインに確認するという面談で
したが、レビューという名のもとにコーチングを駆使して育成して行くと
いう手法を取り入れていきました。
その時のバイブル書籍がヒューマンバリュー編著の「コーチングの技術」
です。
今でも大切な書籍の一冊として繰り返し読み、都度新たな気付きを与えて
もらっています。
2022.10.20
約41年間の歩みNO.19
毎日エキサイティングな日々を送っていたある日、札幌の地区本部に集まるよう
全道の営業拠点長全員に招集がかかりました。
あまり深刻に考えずに行った私は、この後大きな人生の岐路に立たされます。
私は事務員から入社して、所謂内勤職員として色々な職務を担当して来ました。
どこかで、いつかは事務員に戻るという選択肢を残していたのかも知れません。
ところがその後私に言い渡されたのはマニュライフ生命で初めての試みである
ユニットマネージャー制度の第1号になって欲しいというオファーでした。
つまり営業職員の身分に職種転換を言い渡されたのです。
誤解がないように記述しておきますが営業職員が嫌だと言っている訳ではあり
ません。ただ、業績も在籍者数も順調だったのに何故私が所謂降格となるのか
納得が行かず上長に確認しました。
しかし全く筋の通らない説明ばかりで話になりません。
退職をも覚悟で最後の手段として私を拠点長に任命した本社の部長に直談判を
しに東京本社まで行って説明を求めました。
当然、勿論全く歯が立たず・・・
私はこのまま泣き寝入りしたくない!と悔しさに地団駄を踏みながらも先々の
人生に想いを馳せました。
フッと、「今は修行のとき。耐えるとき。起きる出来事を俯瞰して見ることを
学ぶように。」と誰かに言われた気がしました。
その時、私はこのオファーを受けようと決心しました。
全く一からのスタートです。再入社したと同じ待遇になり全く権限も無くなり
内勤が受ける情報も一切入らなくなりました。
それでも私が心を保ち続けていられたのは一緒に働く営業の方々のお陰でした。
今では、この経験が私を強くしてくれたと思っています。
2022.10.19
約41年間の歩みNO.18
毎日が怒涛の如く流れて行きました。
そして、翌年2001年の春には既契約者のご契約処理がやっと可能になり
解約の申し出に対応することができました。
それまでは解約処理もできない状況でしたので、お客様のお怒りは本当
にピークに達していました。
いざ解約処理をすると経過年数や種々の契約条件でかなり差がありまし
たが、殆どのご契約がマイナスとなっており、本当に申し訳ない思いで
いっぱいでした。
その後の2001年9月にはマニュライフ生命保険株式会社と社名変更をし
第百生命つまりセンチュリーが消えてしまいました。
この時はとても寂しい気持ちでいっぱいでしたが、ここからマニュライフ
の社風に大きく転換して行ったのです。
その一つが翌月の10月にユニバーサル保険が販売されたことです。
貯蓄と保障のバランスを状況に合わせて変えて行ける保険。
必要な時に必要なだけ最適な方法で貯蓄と保障を備えていただける画期的
な保険です。「変えて行く人の変えられる保険」
一つの保険で9人まで一緒にご加入できる。
主契約は何と貯蓄!医療保障も死亡保障も全て特約!
木で表現すれば主契約は幹で保障は枝葉です。
つまり、幹である貯蓄が基本であり、生きることが大前提なのだと教えて
もらった時、この保険で生命保険業界を変えたい!!と思ったのは私だけ
ではなかったと思います。
この保険を販売するために本社教育部の方々は全国行脚をして丁寧に教育
してくれました。
私が41年間も在籍してこれたのは大好きだった第百生命を救ってくれた
マニュライフ生命に恩返しをしたかったからだと思っています。