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2022.10.18

約41年間の歩みNO.17

 破綻からの毎日はあくる日もあくる日もお客様対応に追われました。

毎日多くのお客様が明確な説明を求めて会社に来店されました。

しかしながら社員である私たちも答えを持っていません。

私たちどころか本社の役員もです。

既に破綻しているわけですから金融庁の判断を仰ぐしかありません。

そんな状況が3週間も続いた頃だったでしょうか?

上長から呼び出しがあり支社に行って話を聞くと「新しい契約募集の

活動はできているか?」とのこと。

私は「?」が心の中で広がりました。

その問いをよ~く咀嚼してみると「お前たちの在籍している会社は

マニュライフセンチュリー生命だぞ。毎月新しい保険募集をするのが

本業だぞ。」と言っていたのです。

私はせめて1ケ月は既契約者対応に専念させて欲しいと頼みましたが

上長が首を縦に振ることはありませんでした。

そして、すぐに私の心に去来したのは、拠点に帰って皆に伝えたら何

て言うだろう?反発されるんじゃないか?という不安でした。

ですが、考えていても仕方がない。伝えるしかない。と心を決めた私

は、次の日の朝礼で毎日のお客様対応を労ったあとで、「今後、大切

なお客様の担当者として既契約を守るためにも自分たちがしっかりと

マニュライフセンチュリー生命に在籍して行かねばなりません。

そして、お客様を増やして行くことが大切です。今月の締め切りまで

後1週間ですね。お客様のニーズに沿ったご契約を、全員が最低1件

以上お預かりしましょう。」と心を込めて伝えました。

営業の皆さんは私の言葉をしっかり受け止めてくれ、破綻した月にも

関わらず全員が新しいご契約をお預かりすることができたのです。

私は締め切りの日、感動で声が震えてしまいました。

2022.10.17

約41年間の歩みNO.16

 翌年も業績、採用活動は順調に推移しており再度入賞?と思いきや結果全国5位か

6位だったと記憶しています。3位までが入賞だったので残念でしたが全国の営業

担当者が大勢該当になった為、初年度とは全く違った形式での表彰だったとのこと

でした。私は初年度に行けて本当にラッキーでした。

そして、日本の生命保険会社から外資の生命保険会社の体制に少しづつ変わって行

きました。

転籍してから1年と少し経過した2000年5月31日、ついに運命の日がやってきます。

私は夕方オフィスに居ました。その頃はまだオフィスにピンク電話が置かれていて、

お客様からも頻繁に電話がかかってきていました。

その日もいつものように「リーンリーン」とピンク電話から呼び出し音が・・・

私はこれまたいつものように「はい。マニュライフセンチュリー生命の長谷川です。」

と名乗り電話を受けました。電話の向こうでは「今、テレビでお宅の会社が破綻した

って言ってるけど本当なの?」と・・・

私は思わず「え~!!」と叫んでしまいました。

オフィスの中にいた事務員さん、営業の方々も一様に私の方を凝視していました。

すぐに「確認させていただきます。」と切電し上長に連絡しました。

そこで真実を知りました。

既契約を保全していた第百生命が破綻したのです。。。

そこからは怒涛の日々が続きました。

破綻当日はお客様窓口は閉店しているにも関わらずお客様が押し寄せて来ました。

対応できない状況でしたのでお帰りになるのを待つしかないわけで。

本当に辛かったです。お客様に申し訳なくて何とかして納得できる説明をしてさし

あげたかった。でも叶わなかったのです。

その日は帰るに帰れない状況で夜中の2時頃にやっと帰ることができました。

私は自分自身も保険募集はしていましたが営業担当の方々の比ではありません。

皆さんは自宅に帰ってからもお客様からの電話対応で寝る時間がなかったと聞き

ました。本当に辛い状況に耐えて頑張ってくれました。感謝しきれません。

私も担当者がいないお客様を中心に対応のため自宅にお詫びに回りました。

ある方には広い庭を指さし「あの木の傍に梯子があるから登って首をつって死ね」

と言われました。

またある方には「あなたたちの責任じゃないよ。会社が悪いんだ。だから元気を

出して、これからも頼むね。」と言われました。

そして、破綻当日のことも忘れられない想い出があります。

私の拠点でいつも私を陰で支えてくれていた営業の女性がいました。

破綻当日の19:00にお客様と前もってご契約の約束をしていたのです。

約束の時間前に破綻が判明したので当然ご契約はキャンセルされると思っていま

した。ところが「約束は約束。破綻のことは知っているけど約束通り契約するよ。」

と言ってくれたとのこと。

年配の営業担当の方でしたが21:00頃泣きながらオフィスに戻ってきました。

私も思わずもらい泣きをしながら、人間の本質を垣間見た思いでした。

破綻したのに新しい契約?と不思議に感じられる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、新しい契約は転籍先のマニュライフセンチュリー生命での契約受理となる

わけです。

ここから暫くは我武者羅にお客様対応に明け暮れる日々でしたが拠点の誰もが会社

を辞めたいという言葉を言いませんでした。

本当に人間的にも素晴らしい方々でした。

2022.10.16

約41年間の歩みNO.15

 2000年5月31日を迎える前に・・・

1998年は日本の生命保険会社に対して破綻の懸念をもつお客様が増えて

来ていました。

ご多分に漏れず第百生命に対してもそうでした。

ですが私たちは会社が破綻するなんて100%考えていなかった。いや考え

ないようにしていたんだと思います。

ですから新しい保険契約も新人の採用も臆することなく進めて行きました。

いつも通りに活動した結果、私は何と1998年度の全国最優秀営業拠点長に

選出されたのです。当時全国で500店くらいあったでしょうか。

1999年の夏に私は表彰式に出席しました。

1999年4月にマニュライフセンチュリー生命に転籍していたので表彰は日本

ではなくマニュライフファイナンシャル社の本社があるカナダでした。

各部門からの選出者10名ほどだったのでニューヨークでヤンキースの野球

を観戦しセントラルパークを散策し、ナイアガラの滝へ。クルーズ船に乗り

ナイアガラの瀑布を直接浴びる体験も!

今は亡き大橋巨泉が開業した土産店OK・ギフトショップ ナイアガラ店にも

もれなく行きました。

トロントでは2007年までの32年間自立式建築物では世界で最も高い電波塔

だったCNタワーの展望台にも行きました。

有名なグラスフロア!!

大きなガラス張りの床の下には、そのまま真下に地面が見える・・・

高所恐怖症の私は足がすくんで一歩も歩けなかった苦い想い出があります。

でも、一番感動したのは、やはりマニュライフファイナンシャル社の本社

役員室などを見学した時です。

宮殿を彷彿とさせる荘厳な雰囲気に圧倒されました。

私はこんな体験をさせていただけるのは拠点で日々営業活動に精を出して

くれているメンバーのお陰だと心から感謝をしながら日本への岐路に着い

たのでした。

2022.10.15

約41年間の歩みNO.14

 現在の私は個人事業主として活動しています。

本来であれば40歳代で起業したいと思っていました。

ですが1999年の4月に思わぬ事態となってしまいました。

私が在籍していた第百生命がカナダのマニュライフファイナンシャル社

との間で合弁子会社マニュライフセンチュリー生命保険株式会社を設立

したのです。

バブル経済崩壊後の経営不振のため第百生命は営業権を譲渡し既契約の

保全会社になってしまったのです。

営業拠点長をしていた私はメンバーと共にマニュライフセンチュリー

生命保険株式会社に転籍後、契約募集活動を支援しながら第百生命に

ある既存のお客様のご契約を保全活動するという特殊な対応をすること

になりました。

となると世間の風評は冷たいものになってきます。

というのも「保険会社は絶対に潰れない」という神話が1997年から

崩れ始めていたからです。

1997年には日産生命が、1999年には東邦生命が破綻していました。

そして2000年に千代田生命が破綻した時には得も言われぬ恐怖を感じ

たものです。

そうは言っても人間誰しもまさか自分の会社が・・・とは思わないし

思いたくない。

でも、そのまさかが起きたのが2000年の5月31日の夕方のことでした。

2022.10.14

約41年間の歩みNO.13

 私が在籍していた会社は投資財閥として名を馳せた川崎財閥の

流れを汲む生命保険会社でした。

川崎財閥は初代川崎八右衛門によって設立され、徳川御三家の

水戸藩の財政に大いに貢献したとのことです。

そして、日本における私立銀行の草分けとなる川崎銀行を設立。

この川崎銀行は第百銀行と合併し川崎第百銀行となり、のちに

三菱銀行と合併し、現在の三菱UFJ銀行というわけです。

銀行だけでは金融資本として不完全だと判断し日本火災保険、

日華生命保険を立ち上げたとのこと。

この日華生命が福徳生命保険、国華生命保険と3社合併し、

第百徴兵保険となり、1945年、戦後に第百生命に社名が変更

されました。

と、まあ何度も合併で危機を乗り越えて来た歴史があります。

銀行系の生命保険会社ということもあり、当時は珍しく貯蓄

保険が何種類もありました。

例えば、貯蓄保険1件月1万円で5年後にはかなりの利息が

付いてお客様に支払われ、営業の方にも営業成績として1件

としてカウントされて収入にも反映されました。

勿論保障性の高い商品も沢山ありました。

特筆するべきは新商品のパイオニアと呼ばれた商品開発です。

今でこそ当たり前に多くのお客様が加入している医療保障は

第百生命の専売商品として5年間は他社で販売できなかった

と聞いています。

また、ガンの保障にもいち早く対応し、ガンに罹患後死亡

したり高度障害になった場合には倍額の保険金が支払われる

という画期的な商品を販売しました。

私は入社後、この話を聞いて心から誇らしく思いました。

その想いは今でも変わりません。