ブログ
2022.10.10
約41年間の歩みNO.9
少しづつ営業拠点長の仕事が慣れて来て毎日事件はあるものの楽しさや遣り甲斐を
感じるようにもなってきました。
当時、東京の渋谷区野沢に自社の研修センターがあり全国新任拠点長研修も実施さ
れていました。
研修センターは一人3畳ほどの個室が与えられ机とベッドでギリギリだった記憶が
あります。
私が拠点長になったのが1996年8月1日で、その研修があったのが1997年1月。。。
実際何日から始まって何日までだったかは忘れてしまいましたが。
その日はいつも通り研修所の大食堂でテレビの画面を観ていました。
そして、そこに信じられない光景が広がっていたのです。
そう、1997年1月17日(火)5時46分に発生した阪神・淡路大震災。
大火災の様子がテレビ画面いっぱいに広がっていました。
そこに泣き崩れる同期の女性が・・・
神戸の方だったのです。同居している老齢のご両親に連絡がとれず神戸まで帰る
手段も見つからない状況でした。
何とか冷静になってもらい研修所の教官の指示の元、彼女は帰るための準備をし、
他のメンバーは研修を再開しました。
この震災での死者は6,434名。多くの尊い命が失われました。
多くの保険会社で保険金の支払いが迅速に行われたと思います。
ただ、ここで考えさせられた事があります。
万が一、ご遺族の方が保険加入の事実を知らなかったら・・・
万が一、ご夫婦一緒に亡くなってしまったら・・・
保険という商品は請求があって初めて支払いの手続きに入ります。
もし、誰からも支払い請求がなかったら・・・
誰にもお支払いすることができません。
今ではネットで簡単に生命保険に加入できる時代になりました。
でも、信頼できる保険担当者が居てくれたら、万が一受取人が亡くなっていたと
しても亡くなった受取人の相続人を必死で探して手続きしてくれるはずです。
それが本当の生命保険の仕事だからです。
2022.10.09
約41年間の歩みNO.8
拠点全体のマネジメントができていないと気付いた私はできるだけオフィスに居て
1人ひとりの状況を観察し声かけをして行きました。
毎日試行錯誤を続けながらも不思議と辞めたいと思わなかったのは仕事が好きだった
から。そして、癖の強いメンバーばかりでしたが営業力があって人としても魅力的な
方々だったからでしょう。
仕事上も人生においても勉強させていただく事が山のようにありました。
勿論かなりの洗礼も受けました。既に詳細は忘れてしまっていますが・・・
そして、その頃の私が身に付けた特技があります。
私のすぐ近くで私の悪口を言われても全く聞こえなくなりました。
ですが、凄く遠く離れた所に居るメンバーが何かに困っている様子は手に取る様に
わかり、会話も聴こえるのです。
これ、本当です!
今はこの能力も少し衰えてしまっていますが・・・
2022.10.08
約41年間の歩みNO.7
営業経験ゼロの私が営業拠点長になり年上の生保レディと共に無謀な挑戦がスタートしました。
私の上長が居るオフィスとは車で10分くらいの距離だったので毎日直接活動報告をしに面談してもらっていました。
上長の私への関りはコーチングそのものでした。
今から27年前のことです。
「どういう組織にしたいのですか?」
「そういう組織にするために、何が必要ですか?」
「必要なものを得るために、どんなアイディアがありますか?」
「アイディアの中から今一番重要だと思えるのは何ですか?」
「それをやるために障害になることはありますか?」
「何から始めますか?」
「それをした時にどんな気持ちでしたか?」
などなど・・・
私は毎日自分で言語化した行動計画を実践しては報告し、また内省を促され自問自答しながら計画を進めて行きました。
その計画の一つが職域訪問です。
当時期間限定で一定の病院での団体保険募集が解禁されており私は職域担当者数名と毎日同行訪問で営業活動を一緒に実施すると決めました。
契約が決まれば毎日朝礼で結果報告してもらいグラフに赤やピンクのバラを貼って称賛しました。
(過去の営業オフィスのあるあるですね!)
私は営業担当者と一緒に行動することで心の距離を縮めたいと考えていたのです。
一定の成果が出ていたので上長に報告した後の問です。
「その活動は拠点全体にどのような効果をもたらしましたか?」
・・・ああ、確かに・・・
暫く答えることができませんでした。
職域担当者数名との営業活動に必死だった私は拠点に居る時間が少なくなり他の営業担当者への配慮に欠けていたことに気が付いたのです。
2022.10.07
約41年間の歩みNO.6
私は35歳の夏に営業拠点に落下傘部隊の如く営業拠点長として赴任しました。
その時の長男の年齢は3歳半で二男が2歳。
オファーを断るという術を持てなかった私は当然のように引き受けます。
着任時の陣容は12名だったと記憶しています。
事務員さんも含め、ほぼ全員が年上の人生経験豊富な女性ばかり・・・
営業拠点名は花園支部!(ある意味、本当に花園でした。。。)
完全アウェイでのスタート!
着任前の研修もない状態だったので何から始めたら良いかもわからず・・・
ただただ一人ひとり個別面談をして話を聴くことに徹しました。
無我夢中で話を聴いているとアッと言う間に夜の8時9時に・・・
ですが不思議と充実感に溢れていました。
ここから私の孤軍奮闘のドラマが始まりました。
そして、この時の上司の私への関りこそがコーチングだったのです。
2022.10.06
約41年間の歩み NO.5
生命保険営業は金融庁に登録されて初めて保険募集ができる仕事です。
私が入社した頃は初級過程試験と言っていましたが現在は一般過程試験と言います。
その一般過程試験を受験する前に所定の研修を受ける必要があります。
その研修をする教育担当という業務に就いたのが入社8年目のことでした。
私は一応教員免許を取得していたので人に何かを教えることに抵抗はなく、むしろ天職と思っていたほどです。
全国では事務職から女性が教育担当に次々に登用されて行きました。
立場として事務職でもない、営業職でもない、ちょっと中途半端なポジションだったかなと思います。
私はこの業務を担当し、より営業の方々と密接に関わり、生命保険の本質を深く学んで行きました。
この業務は通算6年半担当しましたが、この間に私は息子を二人出産しました。
産前6週間、産後8週間の休暇は専業主婦を経験したことのない私には毎日がパラダイスでした。
産休明けにすぐ職場復帰しましたが、私の両親も夫の両親も夫も子育てにとても協力してくれました。
その協力がなければ家庭と仕事の両立は困難を極めていたことでしょう。とても感謝しています。
毎朝二人の息子を車に乗せて託児所に預け、残業を終えてから実家に迎えに行くルーティーンが何年続いたでしょうか。
今となっては懐かしい思い出です。
そんな日々が激変したのが私が35歳の夏でした。