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2022.10.15
約41年間の歩みNO.14
現在の私は個人事業主として活動しています。
本来であれば40歳代で起業したいと思っていました。
ですが1999年の4月に思わぬ事態となってしまいました。
私が在籍していた第百生命がカナダのマニュライフファイナンシャル社
との間で合弁子会社マニュライフセンチュリー生命保険株式会社を設立
したのです。
バブル経済崩壊後の経営不振のため第百生命は営業権を譲渡し既契約の
保全会社になってしまったのです。
営業拠点長をしていた私はメンバーと共にマニュライフセンチュリー
生命保険株式会社に転籍後、契約募集活動を支援しながら第百生命に
ある既存のお客様のご契約を保全活動するという特殊な対応をすること
になりました。
となると世間の風評は冷たいものになってきます。
というのも「保険会社は絶対に潰れない」という神話が1997年から
崩れ始めていたからです。
1997年には日産生命が、1999年には東邦生命が破綻していました。
そして2000年に千代田生命が破綻した時には得も言われぬ恐怖を感じ
たものです。
そうは言っても人間誰しもまさか自分の会社が・・・とは思わないし
思いたくない。
でも、そのまさかが起きたのが2000年の5月31日の夕方のことでした。
2022.10.14
約41年間の歩みNO.13
私が在籍していた会社は投資財閥として名を馳せた川崎財閥の
流れを汲む生命保険会社でした。
川崎財閥は初代川崎八右衛門によって設立され、徳川御三家の
水戸藩の財政に大いに貢献したとのことです。
そして、日本における私立銀行の草分けとなる川崎銀行を設立。
この川崎銀行は第百銀行と合併し川崎第百銀行となり、のちに
三菱銀行と合併し、現在の三菱UFJ銀行というわけです。
銀行だけでは金融資本として不完全だと判断し日本火災保険、
日華生命保険を立ち上げたとのこと。
この日華生命が福徳生命保険、国華生命保険と3社合併し、
第百徴兵保険となり、1945年、戦後に第百生命に社名が変更
されました。
と、まあ何度も合併で危機を乗り越えて来た歴史があります。
銀行系の生命保険会社ということもあり、当時は珍しく貯蓄
保険が何種類もありました。
例えば、貯蓄保険1件月1万円で5年後にはかなりの利息が
付いてお客様に支払われ、営業の方にも営業成績として1件
としてカウントされて収入にも反映されました。
勿論保障性の高い商品も沢山ありました。
特筆するべきは新商品のパイオニアと呼ばれた商品開発です。
今でこそ当たり前に多くのお客様が加入している医療保障は
第百生命の専売商品として5年間は他社で販売できなかった
と聞いています。
また、ガンの保障にもいち早く対応し、ガンに罹患後死亡
したり高度障害になった場合には倍額の保険金が支払われる
という画期的な商品を販売しました。
私は入社後、この話を聞いて心から誇らしく思いました。
その想いは今でも変わりません。
2022.10.13
約41年間の歩みNO.12
私の生命保険会社勤務での41年間の中で最もイヤだったこと。
それは監査を受けることでした。
今では完全に予告監査となっており、いつ入るかわかっています。
ということは、完全に事前に調べられているので誤魔化し(?)
ができないってことです。
ですが十数年前までは、ある朝突然どこかで見たことがあるような
おじ様がオフィスの前に立っていて、心底驚いたものです。
当時はその時に見つかったものが勝負の分かれ目となり、何かを
しくじると(修正していなかったり、裁断していなかったり・・・)
支社全体に大迷惑をかけてしまう。。。
なので、いつ来てもいいように毎日しっかり準備していれば良い
だけで、心配することでもないとは心ではわかっていても何故か
毎日緊張していました。
特に緊張するのは毎週やってくる日曜日の夕方。
サザエさん症候群というのでしょうか。
心が妙にザワつきました。
そして、当時の上長が教えてくれたこと。
本社監査は大体月曜日の朝に入るから前泊で市内のホテルに宿泊
しているはず。知人を装ってホテルに電話をかけて偵察もしてい
たなあ。
しかも入ってからは夕食にお誘いしたり、コーヒーを出したり、
あの手この手で点数を上げようと必死だったことを思い出します。
もう一つ・・・
今から35年くらい前のこと。
地方支社に財務局監査がいきなり入った!!!
みんな目が飛び出るほど驚き、狼狽えました。
その時、若手男性拠点長がロッカーを背に両手を広げ「ここは
勘弁してください。」と監査官に懇願している様子が私の目に
飛び込んできました。
いけいけどんどん系の拠点長だったので誰しもが「やばい・・・」
と感じていたはずです。
しかし、そんな懇願を許してくれるはずもなくロッカーは監査官
の手によって開けられました。
その時に飛び込んできた光景は・・・
何と!ロッカーの中いっぱいに日本酒が格納されていたのです!
私は不謹慎にも笑ってしまいました。
監査と聞くと今でもドキッとします。と同時に、このお茶目な
映像が私の脳裏に焼き付いて離れません。
2022.10.12
約41年間の歩みNO.11
いつ頃までだったでしょうか。
事務員の時は毎月会費を給与天引きで支払い、冬には皆でスキーに
行ったり、 夏にはジンギスカンパーティーをしたり、しょっちゅう
飲み会もあったなあ。
生命保険協会のボーリング大会に出場したり、ソフトボール大会で
優勝したりもしたっけ。
拠点長になってからは拠点のメンバーと親睦会で温泉に行ったり、
ちょっと離れた公園でバーベキューをしたり・・・
仕事だけではない素のお付き合いができました。
そして、毎年恒例の招待旅行!!
一定期間に一定の業績を挙げた方が招待される旅行がありました。
しかも決まって温泉街。
大宴会場での夕餉には時間をたっぷり使って練習して来た拠点対抗
の催し物が次々と披露されます。
そこで繰り広げられる今では信じられない光景!
ある時はお腹が出っ張った年配の男性拠点長がお化粧バッチリで腰
を振ってフラダンスを踊ったり、かつらを被ってお目目パチパチの
お姫様になったりしていました。
そういう衣装を調達するのも営業の方々だったと記憶しています。
凄いエンターテーメントを観せていただきました!
古き良き時代の懐かしい思い出です。
2022.10.11
約41年間の歩みNO.10
研修から戻った私は神戸の状況を気にしつつ、私たちにできること
を必死にやろうと決心しました。
会社全体が業界全体がそんな気運だったと思います。
毎年与えられる年間目標はやって当たり前。できそうにない時は、
新しい人を採用して年間目標をやりきる!これが鉄則でした。
私はメンバーの協力を得ながら徐々に採用にも力を入れて行きまし
た。
当時はまだ男性の入社は不可で幼い子供を養育中のお母さんが次々
と入社してきました。
拠点に夕方子供を連れて戻って来るメンバーが居て私も子供たちと
仲良くなれましたし、家庭の状況も把握することができました。
そして楽しい思い出として一泊旅行がありました。
支社全体の招待旅行だったり、拠点独自の旅行だったり・・・
今はない古き良き時代の風習でした。