ブログ

2022年10月

2022.10.31

約41年間の歩みNO.30

初めての東京ライフはとても新鮮でした。

部屋は1LKで一人暮らしには充分な広さでした。

キッチンが広くて鮭も捌けるほどのシンクの大きさがありましたが

残念ながらお料理をゆっくり作る時間は持てなかった?持たなかっ

た?です。それでも埼玉の姉や長男が遊びに来てくれた時には腕に

よりをかけてお料理を作っていました。

勤務地は代々木のクイントビルだったので千歳烏山駅から京王線で

13分という距離。

いつも車窓から街並みを眺めているとアッと言う間に到着。

1年目はユニットマネージャー担当として研修をしたりデータを作

成して配信したりしました。

その他には他グループの方とプロジェクトを組んでロープレコンテ

ストを企画開催しました。

全国の拠点でロープレ文化が定着することを推進するためにチーム

で何度も話し合いました。

拠点大会、地区本部大会、全国大会と勝ち抜いて来た出場者を全国

大会で迎え最高のパフォーマンスを発揮してもらえるよう準備を整

えました。

1年目の会場は烏山区民会館、2年目はカナダ大使館で開催するこ

とができました。

大きなステージにテーブルとイスを用意し、お客様宅で商談してい

る様子を披露していただくのです。

毎年テーマを変えて各拠点の創意工夫を競います。

応援のメッセージビデオもとても秀逸なものばかりでした。

このロープレコンテストは5年間継続することができ、私の本社で

の大切な想い出です。

当日の私の役割は司会だったので出場者の方々と一番近くで接する

ことができました。

緊張と期待に包まれたエネルギーがステージ上に渦巻いていました。

2022.10.30

約41年間の歩みNO.29

イベント企画などの活動を評価してもらい社長賞をいただくことになりました。

六本木ヒルズで開催された記念パーティーに当時東京で就職していた長男と二人

で出席しました。

色々な部門で選ばれた方が家族を同伴し出席していました。

素晴らしい方々と素晴らしい料理が歓迎してくれました。

長男がスピーチで私のプライベートを暴露したりして恥ずかしい思いもしました

が、それだけ大人になったのだな、と感慨深かったです。

そして、その年の秋に東京本社への異動のオファーがあったのです。

流石に北海道から離れることについては多少の躊躇はありました。

ですが長男が東京で就職していたこと、三番目の姉が24歳で結婚してから埼玉

にずっと住んでいたことなども決めてになりました。

何よりも女性初のマネージャーとして営業教育部に配属になったことが嬉しかっ

たので私の想いを家族に伝え了解を得る事ができました。

本社に行くことは私の究極の願いでした。

「心に描いた夢は必ず実現する」を信じて来たことが実った出来事でした。

翌年1月に世田谷区烏山に引っ越し、私の東京ライフがスタートしたのです。

2022.10.29

約41年間の歩みNO.28

最終的には3つの営業所が2つの営業所になりました。

一番人数の少なかった私の営業所は半数づつ振り分けられたのです。

最後まで全員一緒にと願いましたが叶いませんでした。

私の業務は片方の営業所に入社する新人営業マン(ウーマン)の育成

でした。ユニットマネージャーは3名だったと記憶しています。

この頃一番記憶に残っているのは見込み客発見の一環でイベントを企

画し実行したことです。イベントと言っても全てを自分で企画したの

ではありません。市などで企画しているイベントを紹介してもらって

参加する形でした。

例えば、子供が自由に参加できる遊び場を各企業が提供するイベント

です。

私たちはお祭りをテーマにヨーヨー釣りなどの出店を出しました。

また、先に書いてもらっていた似顔絵をブースに展示したり、会社で

所有しているビーバーの着ぐるみを着たりして楽しんでもらいました。

また、アンケートを書いてもらって抽選もしました。

その他には市のマラソン大会にブースを出しました。

マッサージ店とタイアップしてランナーのケアをしてもらい喜んでも

らいました。

色々やってみましたが見込み客が増えたかといえばなかなか難しかっ

たというのが本音です。ですが、知名度アップには大きな貢献をした

と自負しています。

ごく限られた予算内でのチャレンジでしたが営業の方々と一緒にでき

たことがとても意味のあることでした。

提案を受け入れてくれた上長に心から感謝しています。

2022.10.28

約41年間の歩みNO.27

 アッと言う間に2年が経過し上長も変わりました。

次の上長も第百生命出身者でした。

どちらも私より年下の上司でしたが見識が高く人間性に溢れる素晴らしい方々

でした。

目標意識が高く常に会社に貢献しようと努力する姿に、私は共に成長したいと

心に決めていました。

そんなある日、上長から営業拠点長のオファーがあったのです。

返事は「YESかハイで」というニュアンスが伝わってきて、ほぼ即答状態だった

と記憶しています。

その営業拠点はとても難しい問題を抱えていました。

前任者は営業力もあり殆どのメンバーから慕われていましたが特定のメンバーと

の間に誤解があり関係が悪化した為、問題解決を図ろうとの意図で一旦営業現場

から距離を置くことになったのだと思います。

私は8年ぶりに営業拠点長になることに相当な覚悟をして初日を迎えました。

そこには60歳を過ぎてから特別枠で入社した営業力が高く人間的な魅力に溢れ

た女性や、凛とした佇まいが素敵でスポーツ万能な女性などがいました。

勿論営業力が高くインストラクションスキルが高い男性陣も何人もいました。

私は「この人たちの胸を借りて働きやすい職場を作ろう」と奮い立ちました。

結果、年間目標を達成し翌年の全国営業会議で表彰され、ダイヤ入りのバッチ

と本革の手帳カバーを頂きました。今でも大切に使っています。

2年目に入り様々な問題が発生して来ました。

やはり一筋縄にはいかないものです。

その上、戦略的な組織統合で3つの営業拠点が2つになると発表されたのです。

前年の業績結果は一番良かった私の拠点は人数が少なかったため統合される事

が決定しました。

この時ばかりは説明に来た本社営業トップに悔しくて納得いかず泣いて抗議を

してしまいました。

それは私自身のためではなく、頑張って来た拠点のメンバーに本当に申し訳が

立たなかったからです。

2022.10.27

約41年間の歩みNO.26

トレーナーになった頃はまだ拠点での新人研修だった為、全道各地の拠点に訪問し

 研修を実施していました。

その後全道各地で入社した新人に札幌に集合し、ほぼ1ケ月間新人研修を受講して

もらうようになりました。

つまり札幌以外の新人は会社が借りた宿泊先から札幌の研修室に通うのです。

基本的に金土日は帰省し翌週月曜日にはまた集合という流れだったと記憶していま

す。(金曜日は現地の拠点に出社)

この頃、とても大事にしていたことがあります。

それは、「何故この業界に入ったのか」「何故この会社に入社したのか」

「この会社で何を実現したいのか」という3点を新人に問いかけた時に淀みなく

言語化できるようにロープレを徹底することでした。

これをマイストーリーの構築と名付け、多くの時間を費やしました。

このマイストーリーを構築することで生命保険営業をスタートする心構えができ、

生保営業マン(ウーマン)の軸ができるのです。

生命保険営業の仕事は本当に厳しい仕事です。

形のある商品を販売する場合にはお客様の購入心理はゼロ地点からスタートする

のが一般的かも知れません。

しかし、生命保険を販売する場合はマイナス地点からスタートするのが一般的だ

と言われています。

何故なら、殆どの方が生命保険営業に対して誤解している場合が多いからです。

誤解を招くような販売方法が多かったのも事実かも知れません。

ですので、マイナスからゼロ地点まで上げて行くためには信頼できる営業マン

(ウーマン)なのか、次の話しも聞く価値があるのか・・・このマイストリー

がとても大切な要素になっていると捉えていました。

そして、営業マン(ウーマン)のメンタルブロックに対する最大の防御策とも

捉えていたのです。

2022.10.26

約41年間の歩みNO.25

 充実した日々を送っているなかで全道のユニットマネージャー会議が札幌で開催

されることになり、私は管下のユニットマネージャーと共に出席しました。

私には事前に組織運営についてプレゼンするようにと指示がありましたので資料

を準備していました。

いざプレゼンしてみると今まで通って来た道のりが走馬灯のように脳裏をかすめ

支えてくれたメンバーに感謝の気持ちがグワッと湧いてきました。

日々採用活動をして仲間を増やそうと工夫してくれていること、新人には基礎を

身に付けさせるため毎朝早く会社に来てロープレをしてくれていることなどを、

スライドに書いてあることの上に想いを言葉に乗せて伝えました。

そのプレゼンを本社教育部の方が見てくれていたのでした。

その年の秋、私は道東の釧路から札幌に異動することになったのです。

しかも、その本社教育部の方が私の上長になりました。

職務は北海道にある営業拠点に入社する新人のトレーナーでした。

私は再度職務変更となり内勤職員となりました。

その時長男は高校2年生、二男は中学3年生。

私は半年間は転居せず釧路をベースに出張の形をとらせていただきながら仕事

に慣れて行きました。

そして、翌年3月には札幌に転居して本格的に単身赴任生活がスタートしたわけ

です。夫には息子たちのお弁当を毎朝作って持たせてもらい感謝しています。

義理の父母には毎晩の夕食を助けてもらったり息子たちの塾の送迎など大変お世

話になりました。

仕事が忙しいときは2ケ月に一度しか帰れない時もありましたが、トレーナーの

仕事は私の天職だと思うほど好きな仕事でした。

そして、新しく出会える新人の皆さんが「この仕事をして良かったな、この会社

に入社して良かったな」と思ってもらいたい!!

そんな想いが私を突き動かしていたのです。

2022.10.25

約41年間の歩みNO.24

新しい戦力が加わり私の組織は変化の兆しが見え始めました。

しかし、組織の現状は女性8割の世界でしたので簡単に馴染むことは出来

なかったと思います。

ですがベテランのお姉さまたちが生命保険営業について、商品の特徴につ

いて、契約保全の大切さについて、事務処理について多方面から応援して

くれました。

そして、丁度導入されていたロジカルに体系立てられたコンサルティング

手法を駆使し彼は見事な生保営業のスタートを切ったのです。

当時の私は男性拠点長の管下にいるユニットマネージャーという立場でし

たがユニット内の人数は20名いました。

更に組織を拡大して行くには私の右腕左腕が必要です。

既にユニット内にはユニットマネージャーが存在しておりましたが、いつか

私がこの組織を離れることになっても拠点長として任せられる人材を育てた

いと思っていました。

そこで新人ではありますが彼に期待をかけてみたのです。

数か月後には男性2名を採用し、コンサルティング手法を徹底的にトレーニ

ングし、新人育成に貢献してくれました。

その結果ユニットマネージャーに昇格してくれて私の組織は体制が整いつつ

ありました。

他にも私が事務員だった辛い状況の時に親しくなった元教員で博学の女性や

営業バリバリでスキルの高い優績者の女性、他外資系生命保険で活躍後に転

職して来た男性のユニットマネージャーに支えられて業績も陣容も右肩上が

りで成長して行きました。

私がユニットマネージャーをしていて一番遣り甲斐があって心から楽しめた

時期でした。

2022.10.24

約41年間の歩みNO.23

 厳しい状況に一筋の光が見えたのが2004年の後半。

きっと無理だろうと半ばあきらめていた外車販売トップセールスマンが

私の組織への転職を考え始めてくれたのです。

実は私の高校時代の後輩であり、夫の野球仲間でもありました。

まだお子さんも小さく、これから教育費がかかる時期です。

私はだからこそ、生命保険業界にお誘いしたのです。

ご存知の方も多いかと思いますが、生命保険のビジネスは最低保障給与

はあるものの基本的にはフルコミッションの世界です。

しかも私が在籍していた会社は、契約が挙がれば挙がっただけの給与が

支払われました。つまり青天井なわけです。

彼は人脈も多く、営業力も高く、地頭も良い!まさに会社が求める人材

の要素を殆ど兼ね備えていたのです。

そして、2005年1月に入社が決定!!

私にとっては青天の霹靂!!!

ただ、嬉しくて小躍りしたくなる自分と、彼の人生を背負う責任に潰さ

れそうになる自分との葛藤もありました。

そして、私はその責任を全力で全うしようと心に誓ったのです。

彼に比べて人脈も営業力も地頭も低い私でしたが、責任感と行動力、何

より相手の話をしっかり聴くことは自分の強みだと思っていました。

そして、人としての器を磨き高めることを目指し各種の自己啓発を始め

たのです。

「心に描いた夢は必ず実現する」

今もこの言葉を信じて毎日チャレンジを続けています。

2022.10.23

約41年間の歩みNO.22

 私はオフィスでの立場がだんだん小さくなって行くのを感じていました。

本社からも尋問のような聴き取りがあり不安定な状況が続きました。

新人は成績が優秀でしたので会社としても大切にしたかったのだと思いま

す。

その時の私にできることは、やるべきことをやるだけ・・・

そう心を切り替え、できるだけ平静を保とうと努力しました。

ベテランの方々の助けも得て元気を取り戻していったのです。

そして、次に私に元気を与えてくれたのは本社の全国新人研修のサポート

業務でした。

3ケ月に一度は自ら希望し本社までサポートに行きました。

そこで得た知識や経験を自分の組織で活かしたいとも考えていました。

その時の本社研修スタッフは熱意の塊みたいな方ばかりだったと記憶して

います。研修チームのトップは「こんなにロジカルに納得行く話ができる

人っているんだ!」と思うような素晴らしい講師でした。

数年後には独立されて会社から離れてしまいましたが会社にとって大きな

財産を残してくれたと思っています。

この時期は、辛い経験もしましたが、それ以上に心が豊かになる経験をす

ることができたと感謝しています。

全ての出来事は私が成長するためにあったのだと今なら思えます。

2022.10.22

約41年間の歩みNO.21

 私は会社が「誰もが働きたい会社」を目指して大きく舵を切ったことを実感しました。

そして、少なくても私の組織は年配者も若年者も男性も女性も同じ方向を向いていたと

確信しています。

会社のビジョン、ミッション、バリューが明確で誰も疑いようがなかったのです。

オフィス内のディスクなども一新され明るく爽やかになりました。

と同時に採用の考え方が大きく変わり、年間4名の採用でOKとなりました。

それまでは組織を拡大するために1人でも多く採用することが求められており、毎月

採用数に追われていたように思います。

ただ、採用数は求めないが質に拘るというのがコンセプトでした。

その為に、採用候補者の情報を集め、電話でアポイントをとり、ホテルのラウンジ等

で会い、ファーストアプローチをする。その際のマニュアルがあり、ロープレを重ね、

次のステップであるキャリア オポチュニティ プログラムのセッションに繋げることを

目指してマネージャーにとって最も重要な活動と位置づけていました。

私は忠実に守りながら活動したつもりでしたが、入社後長く続かなかったり成績が振る

わなかったりで苦戦していました。

そんな状況が続いていた時に事件が起きました。

新人の一人が私に不満を抱き本社に訴えたのです。

私は本社で実施していた全国新人研修にほぼ毎月のようにサポートで行っていたので即

情報を得ました。

その時はいきなり本社に訴えられて強い憤りを感じましたが、ここで腹を立てて大事に

する気にもなれませんでした。この人がそう感じたのだから否定しようがないわけです。

つまり、私が仕事をしていないと言うわけです。

新人の考える仕事と私が優先している仕事が違ったわけです。

ただ、ここでの失敗は相手に理解してもらうまで話し合わなかったことでした。

問題を放置したままになっていたのです。

その状況が本社の私への評価に影響していることを、その時私は気付いていませんでした。