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2022年10月
2022.10.21
約41年間の歩みNO.20
ユニットマネージャーとしてスタートしたのが2003年4月1日のことです。
権限や会社からの情報量は極端に減りましたが日々のルーティーン業務は
殆ど変わりません。ですが採用、教育、育成に対する考え方がガラリと変
わりました。
そして一番変わったのは営業教育の在り方、トレーニングの考え方、営業
手法でした。
それまでの新人営業職員に対しての研修は契約募集ができる最低限の資格
を得るための一般過程試験に合格することを目指した研修でした。
ですので、講義や模擬テストが中心でした。
無事合格後は商品勉強です。数多の商品から代表的な商品をパンフレット
や約款を使って教えていました。
その新人初期研修が大きく変わったのです。
それまでは入社した拠点だけでの研修でしたが試験合格後の翌月には全国
の新人営業職員が東京本社に集まり合宿研修のような形態で集合研修が行
われるようになりました。
その研修はロープレ中心の実践的研修であり当初は夜遅くまで本人が納得
するまでロープレが繰り広げられていました。
当時の主力商品であるユニバーサル保険を販売する為にお客様の購入心理
に沿ってアプローチフリップ(紙芝居のようなもの)が全職員に提供され、
そのフリップを使いながら、いかに自分の言葉で会社や自分の想いを伝え
られるかを繰り返し練習したのでした。
私は、まさに目から鱗が落ちる状態で、心の底からワクワクが止まらない
気持ちでいっぱいだったのを昨日のことのように覚えています。
また、ユニットマネージャーの研修も新設されました。
新人研修が変わったのですから当然の流れではありましたが・・・
ここで改めてコーチングの基本を学んだのです。
今までは営業の方々に業績の見込み状況をメインに確認するという面談で
したが、レビューという名のもとにコーチングを駆使して育成して行くと
いう手法を取り入れていきました。
その時のバイブル書籍がヒューマンバリュー編著の「コーチングの技術」
です。
今でも大切な書籍の一冊として繰り返し読み、都度新たな気付きを与えて
もらっています。
2022.10.20
約41年間の歩みNO.19
毎日エキサイティングな日々を送っていたある日、札幌の地区本部に集まるよう
全道の営業拠点長全員に招集がかかりました。
あまり深刻に考えずに行った私は、この後大きな人生の岐路に立たされます。
私は事務員から入社して、所謂内勤職員として色々な職務を担当して来ました。
どこかで、いつかは事務員に戻るという選択肢を残していたのかも知れません。
ところがその後私に言い渡されたのはマニュライフ生命で初めての試みである
ユニットマネージャー制度の第1号になって欲しいというオファーでした。
つまり営業職員の身分に職種転換を言い渡されたのです。
誤解がないように記述しておきますが営業職員が嫌だと言っている訳ではあり
ません。ただ、業績も在籍者数も順調だったのに何故私が所謂降格となるのか
納得が行かず上長に確認しました。
しかし全く筋の通らない説明ばかりで話になりません。
退職をも覚悟で最後の手段として私を拠点長に任命した本社の部長に直談判を
しに東京本社まで行って説明を求めました。
当然、勿論全く歯が立たず・・・
私はこのまま泣き寝入りしたくない!と悔しさに地団駄を踏みながらも先々の
人生に想いを馳せました。
フッと、「今は修行のとき。耐えるとき。起きる出来事を俯瞰して見ることを
学ぶように。」と誰かに言われた気がしました。
その時、私はこのオファーを受けようと決心しました。
全く一からのスタートです。再入社したと同じ待遇になり全く権限も無くなり
内勤が受ける情報も一切入らなくなりました。
それでも私が心を保ち続けていられたのは一緒に働く営業の方々のお陰でした。
今では、この経験が私を強くしてくれたと思っています。
2022.10.19
約41年間の歩みNO.18
毎日が怒涛の如く流れて行きました。
そして、翌年2001年の春には既契約者のご契約処理がやっと可能になり
解約の申し出に対応することができました。
それまでは解約処理もできない状況でしたので、お客様のお怒りは本当
にピークに達していました。
いざ解約処理をすると経過年数や種々の契約条件でかなり差がありまし
たが、殆どのご契約がマイナスとなっており、本当に申し訳ない思いで
いっぱいでした。
その後の2001年9月にはマニュライフ生命保険株式会社と社名変更をし
第百生命つまりセンチュリーが消えてしまいました。
この時はとても寂しい気持ちでいっぱいでしたが、ここからマニュライフ
の社風に大きく転換して行ったのです。
その一つが翌月の10月にユニバーサル保険が販売されたことです。
貯蓄と保障のバランスを状況に合わせて変えて行ける保険。
必要な時に必要なだけ最適な方法で貯蓄と保障を備えていただける画期的
な保険です。「変えて行く人の変えられる保険」
一つの保険で9人まで一緒にご加入できる。
主契約は何と貯蓄!医療保障も死亡保障も全て特約!
木で表現すれば主契約は幹で保障は枝葉です。
つまり、幹である貯蓄が基本であり、生きることが大前提なのだと教えて
もらった時、この保険で生命保険業界を変えたい!!と思ったのは私だけ
ではなかったと思います。
この保険を販売するために本社教育部の方々は全国行脚をして丁寧に教育
してくれました。
私が41年間も在籍してこれたのは大好きだった第百生命を救ってくれた
マニュライフ生命に恩返しをしたかったからだと思っています。
2022.10.18
約41年間の歩みNO.17
破綻からの毎日はあくる日もあくる日もお客様対応に追われました。
毎日多くのお客様が明確な説明を求めて会社に来店されました。
しかしながら社員である私たちも答えを持っていません。
私たちどころか本社の役員もです。
既に破綻しているわけですから金融庁の判断を仰ぐしかありません。
そんな状況が3週間も続いた頃だったでしょうか?
上長から呼び出しがあり支社に行って話を聞くと「新しい契約募集の
活動はできているか?」とのこと。
私は「?」が心の中で広がりました。
その問いをよ~く咀嚼してみると「お前たちの在籍している会社は
マニュライフセンチュリー生命だぞ。毎月新しい保険募集をするのが
本業だぞ。」と言っていたのです。
私はせめて1ケ月は既契約者対応に専念させて欲しいと頼みましたが
上長が首を縦に振ることはありませんでした。
そして、すぐに私の心に去来したのは、拠点に帰って皆に伝えたら何
て言うだろう?反発されるんじゃないか?という不安でした。
ですが、考えていても仕方がない。伝えるしかない。と心を決めた私
は、次の日の朝礼で毎日のお客様対応を労ったあとで、「今後、大切
なお客様の担当者として既契約を守るためにも自分たちがしっかりと
マニュライフセンチュリー生命に在籍して行かねばなりません。
そして、お客様を増やして行くことが大切です。今月の締め切りまで
後1週間ですね。お客様のニーズに沿ったご契約を、全員が最低1件
以上お預かりしましょう。」と心を込めて伝えました。
営業の皆さんは私の言葉をしっかり受け止めてくれ、破綻した月にも
関わらず全員が新しいご契約をお預かりすることができたのです。
私は締め切りの日、感動で声が震えてしまいました。
2022.10.17
約41年間の歩みNO.16
翌年も業績、採用活動は順調に推移しており再度入賞?と思いきや結果全国5位か
6位だったと記憶しています。3位までが入賞だったので残念でしたが全国の営業
担当者が大勢該当になった為、初年度とは全く違った形式での表彰だったとのこと
でした。私は初年度に行けて本当にラッキーでした。
そして、日本の生命保険会社から外資の生命保険会社の体制に少しづつ変わって行
きました。
転籍してから1年と少し経過した2000年5月31日、ついに運命の日がやってきます。
私は夕方オフィスに居ました。その頃はまだオフィスにピンク電話が置かれていて、
お客様からも頻繁に電話がかかってきていました。
その日もいつものように「リーンリーン」とピンク電話から呼び出し音が・・・
私はこれまたいつものように「はい。マニュライフセンチュリー生命の長谷川です。」
と名乗り電話を受けました。電話の向こうでは「今、テレビでお宅の会社が破綻した
って言ってるけど本当なの?」と・・・
私は思わず「え~!!」と叫んでしまいました。
オフィスの中にいた事務員さん、営業の方々も一様に私の方を凝視していました。
すぐに「確認させていただきます。」と切電し上長に連絡しました。
そこで真実を知りました。
既契約を保全していた第百生命が破綻したのです。。。
そこからは怒涛の日々が続きました。
破綻当日はお客様窓口は閉店しているにも関わらずお客様が押し寄せて来ました。
対応できない状況でしたのでお帰りになるのを待つしかないわけで。
本当に辛かったです。お客様に申し訳なくて何とかして納得できる説明をしてさし
あげたかった。でも叶わなかったのです。
その日は帰るに帰れない状況で夜中の2時頃にやっと帰ることができました。
私は自分自身も保険募集はしていましたが営業担当の方々の比ではありません。
皆さんは自宅に帰ってからもお客様からの電話対応で寝る時間がなかったと聞き
ました。本当に辛い状況に耐えて頑張ってくれました。感謝しきれません。
私も担当者がいないお客様を中心に対応のため自宅にお詫びに回りました。
ある方には広い庭を指さし「あの木の傍に梯子があるから登って首をつって死ね」
と言われました。
またある方には「あなたたちの責任じゃないよ。会社が悪いんだ。だから元気を
出して、これからも頼むね。」と言われました。
そして、破綻当日のことも忘れられない想い出があります。
私の拠点でいつも私を陰で支えてくれていた営業の女性がいました。
破綻当日の19:00にお客様と前もってご契約の約束をしていたのです。
約束の時間前に破綻が判明したので当然ご契約はキャンセルされると思っていま
した。ところが「約束は約束。破綻のことは知っているけど約束通り契約するよ。」
と言ってくれたとのこと。
年配の営業担当の方でしたが21:00頃泣きながらオフィスに戻ってきました。
私も思わずもらい泣きをしながら、人間の本質を垣間見た思いでした。
破綻したのに新しい契約?と不思議に感じられる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、新しい契約は転籍先のマニュライフセンチュリー生命での契約受理となる
わけです。
ここから暫くは我武者羅にお客様対応に明け暮れる日々でしたが拠点の誰もが会社
を辞めたいという言葉を言いませんでした。
本当に人間的にも素晴らしい方々でした。
2022.10.16
約41年間の歩みNO.15
2000年5月31日を迎える前に・・・
1998年は日本の生命保険会社に対して破綻の懸念をもつお客様が増えて
来ていました。
ご多分に漏れず第百生命に対してもそうでした。
ですが私たちは会社が破綻するなんて100%考えていなかった。いや考え
ないようにしていたんだと思います。
ですから新しい保険契約も新人の採用も臆することなく進めて行きました。
いつも通りに活動した結果、私は何と1998年度の全国最優秀営業拠点長に
選出されたのです。当時全国で500店くらいあったでしょうか。
1999年の夏に私は表彰式に出席しました。
1999年4月にマニュライフセンチュリー生命に転籍していたので表彰は日本
ではなくマニュライフファイナンシャル社の本社があるカナダでした。
各部門からの選出者10名ほどだったのでニューヨークでヤンキースの野球
を観戦しセントラルパークを散策し、ナイアガラの滝へ。クルーズ船に乗り
ナイアガラの瀑布を直接浴びる体験も!
今は亡き大橋巨泉が開業した土産店OK・ギフトショップ ナイアガラ店にも
もれなく行きました。
トロントでは2007年までの32年間自立式建築物では世界で最も高い電波塔
だったCNタワーの展望台にも行きました。
有名なグラスフロア!!
大きなガラス張りの床の下には、そのまま真下に地面が見える・・・
高所恐怖症の私は足がすくんで一歩も歩けなかった苦い想い出があります。
でも、一番感動したのは、やはりマニュライフファイナンシャル社の本社
役員室などを見学した時です。
宮殿を彷彿とさせる荘厳な雰囲気に圧倒されました。
私はこんな体験をさせていただけるのは拠点で日々営業活動に精を出して
くれているメンバーのお陰だと心から感謝をしながら日本への岐路に着い
たのでした。
2022.10.15
約41年間の歩みNO.14
現在の私は個人事業主として活動しています。
本来であれば40歳代で起業したいと思っていました。
ですが1999年の4月に思わぬ事態となってしまいました。
私が在籍していた第百生命がカナダのマニュライフファイナンシャル社
との間で合弁子会社マニュライフセンチュリー生命保険株式会社を設立
したのです。
バブル経済崩壊後の経営不振のため第百生命は営業権を譲渡し既契約の
保全会社になってしまったのです。
営業拠点長をしていた私はメンバーと共にマニュライフセンチュリー
生命保険株式会社に転籍後、契約募集活動を支援しながら第百生命に
ある既存のお客様のご契約を保全活動するという特殊な対応をすること
になりました。
となると世間の風評は冷たいものになってきます。
というのも「保険会社は絶対に潰れない」という神話が1997年から
崩れ始めていたからです。
1997年には日産生命が、1999年には東邦生命が破綻していました。
そして2000年に千代田生命が破綻した時には得も言われぬ恐怖を感じ
たものです。
そうは言っても人間誰しもまさか自分の会社が・・・とは思わないし
思いたくない。
でも、そのまさかが起きたのが2000年の5月31日の夕方のことでした。
2022.10.14
約41年間の歩みNO.13
私が在籍していた会社は投資財閥として名を馳せた川崎財閥の
流れを汲む生命保険会社でした。
川崎財閥は初代川崎八右衛門によって設立され、徳川御三家の
水戸藩の財政に大いに貢献したとのことです。
そして、日本における私立銀行の草分けとなる川崎銀行を設立。
この川崎銀行は第百銀行と合併し川崎第百銀行となり、のちに
三菱銀行と合併し、現在の三菱UFJ銀行というわけです。
銀行だけでは金融資本として不完全だと判断し日本火災保険、
日華生命保険を立ち上げたとのこと。
この日華生命が福徳生命保険、国華生命保険と3社合併し、
第百徴兵保険となり、1945年、戦後に第百生命に社名が変更
されました。
と、まあ何度も合併で危機を乗り越えて来た歴史があります。
銀行系の生命保険会社ということもあり、当時は珍しく貯蓄
保険が何種類もありました。
例えば、貯蓄保険1件月1万円で5年後にはかなりの利息が
付いてお客様に支払われ、営業の方にも営業成績として1件
としてカウントされて収入にも反映されました。
勿論保障性の高い商品も沢山ありました。
特筆するべきは新商品のパイオニアと呼ばれた商品開発です。
今でこそ当たり前に多くのお客様が加入している医療保障は
第百生命の専売商品として5年間は他社で販売できなかった
と聞いています。
また、ガンの保障にもいち早く対応し、ガンに罹患後死亡
したり高度障害になった場合には倍額の保険金が支払われる
という画期的な商品を販売しました。
私は入社後、この話を聞いて心から誇らしく思いました。
その想いは今でも変わりません。
2022.10.13
約41年間の歩みNO.12
私の生命保険会社勤務での41年間の中で最もイヤだったこと。
それは監査を受けることでした。
今では完全に予告監査となっており、いつ入るかわかっています。
ということは、完全に事前に調べられているので誤魔化し(?)
ができないってことです。
ですが十数年前までは、ある朝突然どこかで見たことがあるような
おじ様がオフィスの前に立っていて、心底驚いたものです。
当時はその時に見つかったものが勝負の分かれ目となり、何かを
しくじると(修正していなかったり、裁断していなかったり・・・)
支社全体に大迷惑をかけてしまう。。。
なので、いつ来てもいいように毎日しっかり準備していれば良い
だけで、心配することでもないとは心ではわかっていても何故か
毎日緊張していました。
特に緊張するのは毎週やってくる日曜日の夕方。
サザエさん症候群というのでしょうか。
心が妙にザワつきました。
そして、当時の上長が教えてくれたこと。
本社監査は大体月曜日の朝に入るから前泊で市内のホテルに宿泊
しているはず。知人を装ってホテルに電話をかけて偵察もしてい
たなあ。
しかも入ってからは夕食にお誘いしたり、コーヒーを出したり、
あの手この手で点数を上げようと必死だったことを思い出します。
もう一つ・・・
今から35年くらい前のこと。
地方支社に財務局監査がいきなり入った!!!
みんな目が飛び出るほど驚き、狼狽えました。
その時、若手男性拠点長がロッカーを背に両手を広げ「ここは
勘弁してください。」と監査官に懇願している様子が私の目に
飛び込んできました。
いけいけどんどん系の拠点長だったので誰しもが「やばい・・・」
と感じていたはずです。
しかし、そんな懇願を許してくれるはずもなくロッカーは監査官
の手によって開けられました。
その時に飛び込んできた光景は・・・
何と!ロッカーの中いっぱいに日本酒が格納されていたのです!
私は不謹慎にも笑ってしまいました。
監査と聞くと今でもドキッとします。と同時に、このお茶目な
映像が私の脳裏に焼き付いて離れません。
2022.10.12
約41年間の歩みNO.11
いつ頃までだったでしょうか。
事務員の時は毎月会費を給与天引きで支払い、冬には皆でスキーに
行ったり、 夏にはジンギスカンパーティーをしたり、しょっちゅう
飲み会もあったなあ。
生命保険協会のボーリング大会に出場したり、ソフトボール大会で
優勝したりもしたっけ。
拠点長になってからは拠点のメンバーと親睦会で温泉に行ったり、
ちょっと離れた公園でバーベキューをしたり・・・
仕事だけではない素のお付き合いができました。
そして、毎年恒例の招待旅行!!
一定期間に一定の業績を挙げた方が招待される旅行がありました。
しかも決まって温泉街。
大宴会場での夕餉には時間をたっぷり使って練習して来た拠点対抗
の催し物が次々と披露されます。
そこで繰り広げられる今では信じられない光景!
ある時はお腹が出っ張った年配の男性拠点長がお化粧バッチリで腰
を振ってフラダンスを踊ったり、かつらを被ってお目目パチパチの
お姫様になったりしていました。
そういう衣装を調達するのも営業の方々だったと記憶しています。
凄いエンターテーメントを観せていただきました!
古き良き時代の懐かしい思い出です。