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2022年10月

2022.10.11

約41年間の歩みNO.10

研修から戻った私は神戸の状況を気にしつつ、私たちにできること

を必死にやろうと決心しました。

会社全体が業界全体がそんな気運だったと思います。

毎年与えられる年間目標はやって当たり前。できそうにない時は、

新しい人を採用して年間目標をやりきる!これが鉄則でした。

私はメンバーの協力を得ながら徐々に採用にも力を入れて行きまし

た。

当時はまだ男性の入社は不可で幼い子供を養育中のお母さんが次々

と入社してきました。

拠点に夕方子供を連れて戻って来るメンバーが居て私も子供たちと

仲良くなれましたし、家庭の状況も把握することができました。

そして楽しい思い出として一泊旅行がありました。

支社全体の招待旅行だったり、拠点独自の旅行だったり・・・

今はない古き良き時代の風習でした。

2022.10.10

約41年間の歩みNO.9

 少しづつ営業拠点長の仕事が慣れて来て毎日事件はあるものの楽しさや遣り甲斐を

感じるようにもなってきました。

当時、東京の渋谷区野沢に自社の研修センターがあり全国新任拠点長研修も実施さ

れていました。

研修センターは一人3畳ほどの個室が与えられ机とベッドでギリギリだった記憶が

あります。

私が拠点長になったのが1996年8月1日で、その研修があったのが1997年1月。。。

実際何日から始まって何日までだったかは忘れてしまいましたが。

その日はいつも通り研修所の大食堂でテレビの画面を観ていました。

そして、そこに信じられない光景が広がっていたのです。

そう、1997年1月17日(火)5時46分に発生した阪神・淡路大震災。

大火災の様子がテレビ画面いっぱいに広がっていました。

そこに泣き崩れる同期の女性が・・・

神戸の方だったのです。同居している老齢のご両親に連絡がとれず神戸まで帰る

手段も見つからない状況でした。

何とか冷静になってもらい研修所の教官の指示の元、彼女は帰るための準備をし、

他のメンバーは研修を再開しました。

この震災での死者は6,434名。多くの尊い命が失われました。

多くの保険会社で保険金の支払いが迅速に行われたと思います。

ただ、ここで考えさせられた事があります。

万が一、ご遺族の方が保険加入の事実を知らなかったら・・・

万が一、ご夫婦一緒に亡くなってしまったら・・・

保険という商品は請求があって初めて支払いの手続きに入ります。

もし、誰からも支払い請求がなかったら・・・

誰にもお支払いすることができません。

今ではネットで簡単に生命保険に加入できる時代になりました。

でも、信頼できる保険担当者が居てくれたら、万が一受取人が亡くなっていたと

しても亡くなった受取人の相続人を必死で探して手続きしてくれるはずです。

それが本当の生命保険の仕事だからです。

2022.10.09

約41年間の歩みNO.8

 拠点全体のマネジメントができていないと気付いた私はできるだけオフィスに居て

1人ひとりの状況を観察し声かけをして行きました。

毎日試行錯誤を続けながらも不思議と辞めたいと思わなかったのは仕事が好きだった

から。そして、癖の強いメンバーばかりでしたが営業力があって人としても魅力的な

方々だったからでしょう。

仕事上も人生においても勉強させていただく事が山のようにありました。

勿論かなりの洗礼も受けました。既に詳細は忘れてしまっていますが・・・

そして、その頃の私が身に付けた特技があります。

私のすぐ近くで私の悪口を言われても全く聞こえなくなりました。

ですが、凄く遠く離れた所に居るメンバーが何かに困っている様子は手に取る様に

わかり、会話も聴こえるのです。

これ、本当です!

今はこの能力も少し衰えてしまっていますが・・・

2022.10.08

約41年間の歩みNO.7

 営業経験ゼロの私が営業拠点長になり年上の生保レディと共に無謀な挑戦がスタートしました。

私の上長が居るオフィスとは車で10分くらいの距離だったので毎日直接活動報告をしに面談してもらっていました。

上長の私への関りはコーチングそのものでした。

今から27年前のことです。

「どういう組織にしたいのですか?」

「そういう組織にするために、何が必要ですか?」

「必要なものを得るために、どんなアイディアがありますか?」

「アイディアの中から今一番重要だと思えるのは何ですか?」

「それをやるために障害になることはありますか?」

「何から始めますか?」

「それをした時にどんな気持ちでしたか?」

などなど・・・

私は毎日自分で言語化した行動計画を実践しては報告し、また内省を促され自問自答しながら計画を進めて行きました。

その計画の一つが職域訪問です。

当時期間限定で一定の病院での団体保険募集が解禁されており私は職域担当者数名と毎日同行訪問で営業活動を一緒に実施すると決めました。

契約が決まれば毎日朝礼で結果報告してもらいグラフに赤やピンクのバラを貼って称賛しました。

(過去の営業オフィスのあるあるですね!)

私は営業担当者と一緒に行動することで心の距離を縮めたいと考えていたのです。

一定の成果が出ていたので上長に報告した後の問です。

「その活動は拠点全体にどのような効果をもたらしましたか?」

・・・ああ、確かに・・・

暫く答えることができませんでした。

職域担当者数名との営業活動に必死だった私は拠点に居る時間が少なくなり他の営業担当者への配慮に欠けていたことに気が付いたのです。

2022.10.07

約41年間の歩みNO.6

 私は35歳の夏に営業拠点に落下傘部隊の如く営業拠点長として赴任しました。

その時の長男の年齢は3歳半で二男が2歳。

オファーを断るという術を持てなかった私は当然のように引き受けます。

着任時の陣容は12名だったと記憶しています。

事務員さんも含め、ほぼ全員が年上の人生経験豊富な女性ばかり・・・

営業拠点名は花園支部!(ある意味、本当に花園でした。。。)

完全アウェイでのスタート!

着任前の研修もない状態だったので何から始めたら良いかもわからず・・・

ただただ一人ひとり個別面談をして話を聴くことに徹しました。

無我夢中で話を聴いているとアッと言う間に夜の8時9時に・・・

ですが不思議と充実感に溢れていました。

ここから私の孤軍奮闘のドラマが始まりました。

そして、この時の上司の私への関りこそがコーチングだったのです。

2022.10.06

約41年間の歩み NO.5

 生命保険営業は金融庁に登録されて初めて保険募集ができる仕事です。

私が入社した頃は初級過程試験と言っていましたが現在は一般過程試験と言います。

その一般過程試験を受験する前に所定の研修を受ける必要があります。

その研修をする教育担当という業務に就いたのが入社8年目のことでした。

私は一応教員免許を取得していたので人に何かを教えることに抵抗はなく、むしろ天職と思っていたほどです。

全国では事務職から女性が教育担当に次々に登用されて行きました。

立場として事務職でもない、営業職でもない、ちょっと中途半端なポジションだったかなと思います。

私はこの業務を担当し、より営業の方々と密接に関わり、生命保険の本質を深く学んで行きました。

この業務は通算6年半担当しましたが、この間に私は息子を二人出産しました。

産前6週間、産後8週間の休暇は専業主婦を経験したことのない私には毎日がパラダイスでした。

産休明けにすぐ職場復帰しましたが、私の両親も夫の両親も夫も子育てにとても協力してくれました。

その協力がなければ家庭と仕事の両立は困難を極めていたことでしょう。とても感謝しています。

毎朝二人の息子を車に乗せて託児所に預け、残業を終えてから実家に迎えに行くルーティーンが何年続いたでしょうか。

今となっては懐かしい思い出です。

そんな日々が激変したのが私が35歳の夏でした。

2022.10.05

約41年間の歩み NO.4

職場での人間関係が少しづつ好転して行った私は、ますます仕事に打ち込みました。

新しく担当したのは新契約という業務でした。

営業の方々が夜遅くまで活動してお預かりして来た新しい契約申込書を査閲して本社に

送付する業務です。

25日の締め切り前3日間は山のように積まれた申込書を目の前に脇目も振らず査閲

して気が付いたらいつも夜が明けていました。

家で2時間ほど仮眠して、また会社へ・・・

今でしたら労働基準監督署が黙ってはいないと思いますが当時はよくある話だったと

思います。

今思えば、その頃の私はまだまだ勘違いしている所があり、年配の営業担当の方々に

どうでも良いような申込書の不備を指摘して煙たがられていたように思います。

私はただ、生命保険という社会的に意義のある商品を販売している以上はどんなに

些細な不備も見逃してはいけないと使命感に燃えていたのです。

今ではオンライン面接や端末での申込みなど営業の形が大きく変わりましたが当時は

紙媒体が殆どで営業の方々は大きなカバンを2つも3つも持ち歩き、本当に大変な

状況のなか、ご契約を預かって来てくれました。

そういう営業の方々の苦労のお陰で私はお給料をいただけていることだけは理解して

いたつもりです。

もっと感謝の気持ちを言葉で伝えておけば良かったと今更ながらに反省しています。

2022.10.04

約41年間の歩み NO.3

虐めにあっていた私は自分で自分を認めることができず、どんどん卑屈になって行きました。

ですが元来負けず嫌いな私は周りに悟られないよう仕事を我武者羅に頑張ることで精神を保っていたと思います。

そんな状況が続いていましたがある時パートで入社して来た年上の女性が私を支えてくれました。

昼食休憩も一緒に過ごしているうちに私は彼女に信頼を寄せ、自分の想いを語っていました。

彼女はただただ黙って私の語りを受け止めてくれました。

数日そのような状況が続いた後、彼女はポツポツと私に問いかけてくれるようになりました。

私自身の将来のこと、理想の組織、仕事に対する想い、何故虐めに遭ったと思っているかなど・・・

それまでの私は自分自身を振り返ることもして来なかったことに気が付きました。

よく考えると、彼女は決して答えを求めては来ませんでした。

ただただ、私自身と向き合ってほしいと思って問いかけていたと後日教えてくれました。

時間はかかりましたが彼女のお陰で凍り付いていた私の心が溶け出し職場の仲間に対して

素直な態度で接する事ができるようになりました。

人間関係でのトラブルはどちらかが100%悪いなんてことはないと思っています。

相手が100%悪いように見えても、相手に対してちょっとした配慮が欠けていたかも知

れない。伝えたつもりでも伝わっていなかったかも知れない。

意思の疎通は難しい。

だからこそ意識して人に接して行きたいと彼女に教えてもらったと思っています。

2022.10.03

約41年間の歩み NO.2

入社して半年もたつと、私は会社に行くのが楽しみになっていました。それは職場の雰囲

気が良かった事と少しづつ仕事自体が面白くなって来たからです。数年後には支社長から

ロータリークラブの子供組織であるローターアクトクラブへの参加を促されました。

訳もわからず入会したその組織で私は大きな学びと友を得る事ができました。

ただ、何故私に支社長は白羽の矢を立てたのか・・・それは単に自宅が近かったというだ

けのことでした。

ですがこの入会が私にとって社内の空気を乱す要因になっていたことに気付いたのは数年

後のことだったのです。

当時、先輩も含め女性事務員だけでも10名くらいいて、しかも有能な女性で超美人ばか

り・・・

基本的に鈍感な私は陰で何を言われているかなんて気にもとめていませんでした。

ところがだんだん先輩も同僚も私に対する態度が変わり、話しかけても無視されるように

なりました。

流石の私も少しづつ気付き始めましたが何をどうすれば良いのかもわからず・・・誰にも

相談できずに悩みが深くなって行きました。

実は高校生の時にも女友達から虐めを受けた経験があったので「またか・・・」と思いま

した。

虐めを受けると、やり場のない息苦しさを覚えます。それまで仲が良ければ良いほど、あ

る日突然手のひらを返された時の衝撃は心臓が飛び出るほどでした。

私はこの高校生の時の虐めからは完全に逃げました。正面から立ち向かう勇気も覚悟もな

かったからです。

ここで逃げたツケが社会人になってからの虐めに繋がっていると思っています。

人生に乗り越えられないことはないからチャレンジしなさい、と・・・

中途半端にしていることは人生のなかで必ず繰り返されるのだと悟りました。

2022.10.02

約41年間の歩み NO.1

今日から私が前職で経験してきたことを徒然なるままに書き綴ってみようと思います。

私は短大卒業後、自動販売機を扱う会社に事務員として入社しましたが、その会社を4ケ

月で退職してしまいます。

何故か?理由は仕事が暇だったから。毎日毎日4大卒の男性と電話の取り合い。たまに定

型の稟議書を書き、そしてトイレ掃除。

それなのに毎月いただけるお給料は結構な金額でした。

何か違う・・・このままこの会社に居て良いのか焦燥感にかられ転職を考え始めた頃に前

職の生命保険会社に出会いました。

その出会いは何と新聞の求人広告。当時は新聞に多くの求人広告がありました。

私は迷うことなく生命保険会社の事務員募集に応募し筆記試験を受けました。

何故生命保険会社だったのか・・・

今思えば明確な理由は思いつかないのですが金融機関に一種の憧れを抱いていたのでしょ

う。筆記試験に無事合格し、最終面接に3人が残ったのを覚えています。

私の何を気に入ってもらえたのか未だに不明ですが私の推測では自宅が近かった事と高

校・短大と5年間バドミントンをしてきた体力を気に入ってもらえたのではないかと思っ

ています。

何せ超ハードな勤務が待っていましたから。

入社直後に配属されたのは地方支社バックオフィスで経理担当。全く意味不明な用語に悪

戦苦闘しながらお局様的先輩の指示に従い毎日ビクビクして過ごしていた頃が妙に懐かし

く思い出されます。

ですが、ここで厳しい指導に苛まれながらも乗り越えた経験がここからの長い職業人生に

大きな影響を与えたと言って

も過言ではありません。

そして、ここからが私の長い生命保険会社でのドラマがスタートしたのです。