ブログ

経験と学び

2023.07.11

巫女になる!?

 先日、巫女講座で所作などを学び巫女養成講座初級認定証を頂いた。
いや~、巫女さんって何歳になってもなれるのは知らなかった!
ちょっと図々しいかな?って躊躇ってみたけど一度は着てみたかったので。。。
現代における巫女は、神社に属していて神事に奉仕して「神職」を補佐する女性。
年齢制限は、神社によってバラバラだそうで、やはり未婚が望ましいらしい。
そりゃそうだよね・・・
巫女の歴史は古代より神楽を踊ったり、祈祷をしたり、占いをしたり、神様の
メッセージを得て他の方に伝えたり、亡くなった方のメッセージを伝える役割
なのだそうだ。
中世では、特定の神社に属さず、民家へ出向いて人々を癒す「歩き巫女」が生
まれ、そこから歌舞伎踊りなどの日本文化の源流も生まれたそうだ。
何と、1873年(明治6年)に巫女禁断令が出るまでは歌舞伎は巫女さんが
踊っていたのだ。
巫女禁断令が出てから巫女さんは廃業したり、民間祈祷師になったり、教派神
道にへ流れて、ひっそり続ける方々が生まれたそうだ。
1940年(昭和15年)神武天皇即位2600年の記念式典で浦安の舞を奉
納、その際に巫女さんが復活したとのこと。
久しぶりに非日常を味わってみた。



2023.03.01

講話の依頼

今日で2件目の講話の依頼があった。

本当に有難いことだと感謝している。

1件目は4月15日の土曜日で2件目は6月9日の金曜日だ。

話したい事がたくさんあり過ぎて削ぎ落す作業が大変かも知れない。

ただ、大勢の前で話すのは2年ぶりになる。

緊張して足が震えるかも・・・

いやいや、そんなことはないはずだ。

開き直れば、できないことはない。

何があっても命まで取られることはない。

自分のビジネスを伝えられる機会はそう多くはないはずだ。

しっかりと準備をして当日に備えよう。

丁度2年前の私は会社員生活最後の月を過ごしていた。

有休消化は考えず最終日まで走り抜いた。

それは私の意地だったのかもしれない。

41年間勤めた会社に別れを告げるのに休みたくはなかったのだ。

大好きだった会社。

大好きだった仲間。

私の青春そのものだったと想い出すと胸がキュンとなった。

今、企業で働く全ての人が自分らしく働き甲斐を感じて活躍してほしいと

願っている。

ただ、誰でもフッと道に迷う時があるものだ。

方向を見失ってどこを目指せばよいのかわからなくなる時がある。

そんな時は頼ってほしい。

その時の状況に合わせてカウンセラーにもコーチにもコンサルタントにも

なる。

あなたにとっての唯一の人になれるよう毎日研鑽し続ける。

だから、そんな時は頼ってほしい。

 

2023.02.13

今日の学び

今日は心臓が飛び出るほど驚いた。

何にそんなに驚いたかというと、パソコンの充電器が見当たらない。

何故か・・・釧路に忘れてきたからに他ならない。

今朝AM6:45のバスに5時間揺られて札幌に戻った。

すぐに約束の方と会って帰宅したのがPM6:30だった。

キャリーバックからいつものようにパソコンやマウスを出しPM7:30

のZoom勉強会の準備をしようとした矢先に「あ~!無い!」と気付く。

さ~、あと1時間だ。

こういう場合に「あと1時間しかない」と思うか「あと1時間もある」と

思うか結果が変わってくることは長いこと生きてきて経験済みである。

今日の私は「あと1時間もある!」と咄嗟に思ったのだ。

ここから一番近い家電量販店は・・・と考えながら身体は既に走っていた。

雪が深々と降る中をパソコンと財布が入ったバックを抱え猛ダッシュ!

タクシーなど走っていないのだ。

札幌駅の近くにある「ビックカメラ」に飛び込んだのがPM6:50ころ。

すぐに3Fのパソコンフロアに行き、店員さんに尋ねた。

「このレノボのパソコンの充電器ありますか?」

「あ~、外国製のパソコンの部品は置いていませんね。」

「え~!では何か他の方法はありませんか?」

「いや~、確実なのはないですね。ただ、唯一可能性があるとしたらこの

充電器ですかね。ただ、使えないかもしれませんよ。」

「使えるかどうか試してみることはできますか?」と恐る恐る訊く私に無

情にも「それができないんですよ。お買い求めいただくしか・・・」

それはそうだよね、と思いつつも訊いた私が馬鹿だった・・・

ウダウダ考えている時間はない。

「買います買います!先に清算しますから、ここで使えるかどうか確認さ

せてください。」と懇願した私。

清算後パソコンの電源を入れて充電されていることを確認した時の晴れや

かな気持ちはちょっと感動ものだった。

この時既にPM7:10だったので帰りはタクシーで帰ろうと乗り場に行

くと、何と長蛇の列!!

これは間に合わないと思い、またまた猛ダッシュで部屋に着いたのが8分

前だった。

兎に角間に合った!

充電器がないと知ったときに「あ~、あと1時間しかない」と思っていた

ら・・・

今日の勉強会にも参加できなかっただろうし、明日目白押しにある数多の

Zoom面談にも対応できなかったであろう。

最近鈍っていた決断力が蘇ってきた瞬間だった。

そう、私は決断力のある人間だったのだ。

7580円。

今日の私にとっては安い買い物となった。

2022.11.24

約41年間の歩みNO.54

コロナの影響で失業手当期間が2ケ月ほど延長になりました。

再就職をする気持ちはなかったので開業に向けての勉強の期間となりました。

東京にある起業塾に入り一から学びました。

同期は三人。

個性豊かなメンバーですが6ケ月の起業塾を卒業した後も毎月定期的にZOOM

で近況報告会をしています。

倫理法人会にも入り、多くの方々との出会いがありました。

そして、早朝からのミーティングは心が整い一日が長く感じられ、得した気

持ちになれます。

異業種交流会にも入りました。

今まで経験したことのない徹底的にシステマティックな形態で毎週のミーテ

ィングが進んで行きます。

ミーティングだけではなく全てのものがシステム化されているのです。

まだ入会して日が浅いのでわからないことが多いですが・・・

会社を退職してから多くの団体に加入し多くの方々と出逢い視野が広まった

と感じています。

そして、素直に前向きに学びを進めています。

今はもう大企業の看板は無いけれど、自分の夢に向かって歩を進めているの

が嬉しい。

正直まだ誇れるだけの看板は無いけれど、目標を立てて我武者羅に進んでみ

ようと思っています。

2022.11.23

約41年間の歩みNO.53

キャリアコンサルタント養成講座の修了試験日が2021年7月17日。

父の95歳の誕生日と同じ日!

父は私が札幌で受験するのを釧路で待って7月21日に旅立ったのかな、と

勝手に思っています。

キャリアコンサルタントと言ってピンと来る方はまだ少ないと思います。

働く環境が急激に変化する中で、働く方自身がどういう職業人生を送りたい

のか、どうしたら実現できるのか、それらを自分自身で考えなければならな

い時代になってきています。

生涯を通じた職業の選択や計画や能力の開発向上を「キャリア」といい、そ

のキャリアに対する相談に応じ、サポートを行う業務を「キャリアコンサル

ティング」といいます。

そして、私たちは働く方々のキャリアに対する専門家として「キャリアコン

サルタント」と呼ばれているのです。

社会環境の変化に伴いキャリアコンサルタントが重要な存在となってきた背

景があり、2016年に国家資格となりました。

キャリアコンサルタントの試験は学科と実技に分かれていますが、この試験

を実施する団体が2つあります。

1つ目は「キャリアコンサルティング協議会」

2つ目は「日本キャリア開発協会」

私は2つ目の「日本キャリア開発協会」で学びました。

2つの団体の試験は学科は同じですが実技が異なっていました。

私が学んだ「日本キャリア開発協会」の軸になっている手法は傾聴です。

そして「経験代謝」という考え方で相談者に語りを促して行きます。

「経験代謝」とは新陳代謝からヒントを得た造語だということでした。

経験を鏡にして内省を促す関わり方です。

国家試験前はZOOMで資格保有者の先輩がボランティアで何度も指導してく

れました。

お陰で何とか試験に合格し資格を取得することができました。

感謝に堪えません。

おすすめのサービス

2022.11.22

約41年間の歩みNO.52

父が亡くなり母のことが心配でしたが母は思いのほか元気でした。

と言うか元気過ぎるくらいで驚きました。

父は95歳で亡くなりましたが、その時の母は91歳。

母は「父さんは95歳で死んだから、母さんは父さんより長生きしたい!」

と言いました。

よく仲の良い夫婦はどちらかが亡くなるとすぐに後を追うと聞いていたので、

ちょっと肩透かしを食うような気持ちでした。

昔の母は他の人に配慮して場を読んだりできる人でしたが今は自分が思う通

りにならないと我儘なことを言うようになりました。

母は実家で一人暮らしをしていますが隣に4番目の姉夫婦が住んでいて、と

ても頼りにしています。

姉は毎日時間を決めて母の様子をみてくれたり買い物に連れて行ってくれた

り、病院や美容院にも予約を入れて連れて行ってくれています。

私達姉妹は4番目の姉にとても感謝しつつ母がどんどん我儘になって行くの

を憂慮していました。

一番困るのがご近所の方々の噂話です。

と言っても、ズッと昔に聞いたことを断片的に覚えていて、それをあたかも

今聞いたことのように話すのです。

親子の会話のなかだけなら良いのですが他の方が居る時にも話し出すことが

あり、4番目の姉はいつも困っています。

母は何年か前から難聴になり補聴器を付けてはいますがあまり機能していな

いようで、一方的に話すことが多くなっています。

ですが、その話を聴いてイラっとすることも正直ありますが、もっと自分の

ことを知って欲しい、もっと話を聴いてほしい、もっと褒めてほしい。

と思って来たのだな、と思いました。

人は誰でも自分の事を価値ある人間だと思いたいし、他の人にも価値ある人

間だと思ってもらいたいと思っています。

それは人間の三大欲求である食欲、性欲、睡眠欲と同じくらいか、それ以上

に強い欲求だと言われている自己重要感そのものです。

私はもっと早くに母に対してコミュニケーションを密にして自己重要感を満

たす関わりをしてあげれば良かったと思いました。

気付いた今からでも実践しようと思います。

おすすめのサービス

2022.11.21

約41年間の歩みNO.51

釧路の義母も父も札幌に居る私が退職するのを待って旅立って行ったのではな

いかと思うほどのタイミングでした。

義母は87歳、父は95歳になっていました。

二人とも若い時から苦労の連続だったと聞いていました。

特に父は大家族の家庭に生まれていながら子供が居なかった実母の姉に引き取

られ、一人っ子として厳しく育てられたとのことです。

学ぶことが好きだった父ですが家業の酪農や農業を手伝うために満足に勉強が

できず悔しい思いをして来たのだと思います。

そして母とお見合いをして家庭を持ち、5人姉妹の父となった・・・

40歳になって測量士になる夢を実現し単身東京で測量学校に通った・・・

こう考えると父母には測量の仕事をするために男の子が生まれなかったのかな

とも思えます。きっと男の子が生まれていたら酪農と農業は続けていたと思い

ますから。

このように人生って生まれる前からある程度青写真のようなものがあるのだと

思っています。

自分はどんな目的をもって生きていくのか、そこにはどんな成長のテーマがあ

るのか。

周りに対する貢献できるテーマも必ず持って生まれて来ていると思います。

それに気づいて生きて行くかどうかは本人次第ではないでしょうか。

おすすめサービス

2022.11.20

約41年間の歩みNO.50

2021年3月31日に40年8ケ月勤めた会社を退職しました。

多くの方からお花やポーチやハンカチや日本酒など送別の記念品をいただき

心から感謝しています。

オフィスを離れる時は流石に寂しさがこみ上げてきました。

私としては本社で退職を迎えるものと思っていましたが今となっては北海道の

人間として札幌で会社員人生最後の時を迎えられて良かったと思っています。

そして私は翌日からは失業者となりました。

待機期間を経て失業給付を受けることに。

これもまた人生で初めての経験でした。

失業してすぐの4月初めに釧路で入院していた義母が亡くなったのです。

送別会を企画してくださっていた方々に丁重にお詫びして釧路に帰りました。

旭川の方々にはコロナ禍の中でしたが3月中に送別会をしていただいていま

した。

集合写真は私だけマスクを外していますが皆さんはマスクのまま・・・

私だけ大変失礼しました。

義母は数年前から施設に入り食事療法でスマートになっていました。

その上大病を患っていましたが安らかな綺麗な顔で眠っているようでした。

義母には子供たちのことで本当にお世話になり感謝の念でいっぱいです。

そして7月に私の父も亡くなったのです。

父も入院していたので会える状況ではなかったのですが亡くなる前日に私は

丁度釧路に戻っていて10分間だけ面会を許されたのです。

私の長男と2人で父のベットの横に座り、もう話もできず仰向けに寝た切り

の状態の父の手を握っていました。

と、その時です。

父が力の限り私の手を握り返してくれたのです。

私は驚いて「父さん!父さん!」と大きな声で呼びました。

父は一瞬パッと目を開いて私を見てくれたのです。

私は「あー、大丈夫だ!まだ大丈夫!」と嬉しくなりました。

約束の10分が経過し、「また来るね!」と父に伝え母が待つ実家に行って

父の様子を伝えました。

そして、翌日、父が息を引き取ったのです。

2022.11.19

約41年間の歩みNO.49

私は5人姉妹の5女として北海道阿寒町の片田舎に生まれました。

両親は酪農や農業を営み、経済的には決して裕福ではない家庭でした。

両親は家業を継いでくれる男の子が生まれることを望んでいましたが5番目

も女の子・・・

母は大きく落胆したと物心がついた時に直接私に言っていました。

産まれた直後は橋の下に本当に置いてこようと思ったらしいです。

その後両親は占いをみてもらい「お宅には男の子は生まれません。」とハッ

キリ告げられたことで諦めたようです。

もし両親が本当に橋の下に置いていたら私の人生は全く違うものになってい

たかも知れません。

とはいえ、その後の私は5女の末っ子として家族から甘やかされ、可愛がっ

てもらったと自覚しています。

そんな私はいつの頃か「私は何のために生まれてきたのだろう?」と思うよ

うになりました。

決して何かに悲観してのことではありません。

自分には生まれてきた意味があるはずだと思うようになったのです。

なので人生の時々に起きたネガティブな出来事にも「この出来事を違う角度

で捉えたらどうなるだろう?」と知らず知らずのうちに自問自答している私

がいたのです。

その出来事を乗り越えた先には私自身が成長を実感できる出来事が待ってい

ました。

そして、信念を持って願えば必ず描いた夢は実現することも体験しました。

SNSで偶然出会ったライフコーチング!私は「これだ!」と確信しました。

私が知りたかったことがこのロジカルに体系立てた12ステップコーチング

に凝縮されていました。

現実の世界とスピリチュアルの世界が丁度良いバランスで成り立っていまし

た。

私は心の赴くままにポチっと申し込みをしていたのです。

2022.11.18

約41年間の歩みNO.48

退職を決めてからの月日の流れは本当に早かった!

退職後のことを考えて、今から準備できることを探しました。

まず、何をするか。

どこでするか。

誰とするか。

自分勝手に色々妄想しながら準備を進めて行きました。

まずは何をするか・・・

私は約41年間も生命保険業界にいて、人に多く関わってきました。

そして、多くの人の話を聴いてきました。

仕事のこと、人間関係のこと、経済的なこと、身体のこと、健康のこと。。。

本当に様々な悩みや問題を抱えている方が多かったですし、自分だけでは問題

を解決できない人も多かったと思っていました。

これからの人生はこういう方々の心に寄り添い、対話を通して内省を促し自問

自答のなかから本人が答えを見つけ行動に変えて行くキャリアコンサルタント

やコーチとして対人支援の仕事をして行きたいと自然と思えたのです。

早速キャリアコンサルタントの国家資格を得るための講座に申しこみました。

キャリアコンサルタント養成講座は教育訓練給付制度(専門実践)の指定講座

のため合格したら学費が最大70% 還元されます。

私は札幌の通学コースを選んだので住む場所も自然の流れで決まりました。

そしてもう一つ・・・

対人支援をしていて感じていたことがあります。

理屈では片づけられないような不思議な出来事だったり力だったり・・・

ある時偶然SNSで見かけたライフコーチングが気になっていました。

その後も何度も何度も見かけているうちに一度しっかり読み込んでみたのです。

そこには私の心が求めていた内容が書かれていました。

2022.11.17

約41年間の歩みNO.47

 旭川営業所に通い始めて7ケ月目の中旬だったでしょうか。

その日は札幌支社での業務で札幌のオフィスに出勤しました。

8時30分前にパソコンの電源を入れてメールを確認していると衝撃的な通知文

が目に飛び込んできたのです。

なんと希望退職制度!!

役職者も含め45歳以上の職員全員が対象となっていました。

年齢や勤続年数別に条件は違いますが割増退職金が支払われると記載されていま

した。

私は65歳まで3年3ケ月残っていました。

ただ、65歳まで在籍した後に新しいことにチャレンジするのはどうか・・・

期限まで2週間です。

何度も何度も自問自答してみましたが答えは出ていたのです。

ですが約41年も勤めた会社を簡単には辞めたくはない。

そして、旭川営業所のことも気になりました。

私が退職することで営業所閉鎖の不安が加速するのではないかと悩みました。

そして期限の前日の日曜日、翌朝が大雪警報のため旭川に前泊させてもらうこ

とにしました。

その前に会社に寄って、誰も居ないオフィスで心を静めて早期退職の提出をし

ました。

不思議なくらい冷静に提出できたのは不思議でしたが・・・

実は10年くらい前から起業の夢をもっていました。

会社の看板に守られて来た私は勇気が無かったのだと思います。

現実は厳しいのです。

ですが会社が苦しいこの段階で私の決断が少しの役に立つのなら・・・という

気持ちもあり、勇気を出すことができたのだと思います。

最終日の3月31日まで有休も取らずに勤め上げることを心に誓い、1日1日

を噛みしめるように会社に通いました。

改めて、幸せな41年だったと心から感じていたのでした。

2022.11.16

約41年間の歩みNO.46

札幌支社の営業課長としての役割で最も重要だったのが旭川営業所のサポート

でした。

旭川営業所には事務担当者はいましたが拠点長は不在だったのです。

私は何とか旭川営業所の方々が少しでも安心して仕事ができるように毎週2日

間びっしり関われるように通いました。

1日目は朝6:35の列車に乗るために5時起きでした。

8時に旭川駅に着き、事務担当者が私を車で会社に連れて行ってくれました。

9時から朝礼が始まります。

皆さんは朝礼前に会社に着いてそれぞれの仕事の準備をしています。

私はその日の朝礼で使用する資料を準備したりしながら皆さんの様子を観察

していました。

お客様からご契約をお預かりして喜んでいる方、契約の保全で書類の整理を

している方などなど・・・

その表情が明るかったり暗かったりしていることがあります。

何か気になる表情だったり態度だったりする時は朝礼後にさりげなく声をか

けてみます。

体調面だったり精神面だったりの悩みを抱えていることもあります。

そういう変化を見逃さないように心がけていたつもりでした。

ですが、退職希望のサインを見逃してしまうこともあり、悔しい思いもした

ことを記憶しています。

1日目はホテルに泊まるため仕事は最後の営業担当者がオフィスに戻る20

時か21時ころまでは会社で仕事をしていました。

古い考えかもしれませんがオフィスに戻る営業担当者が居るのに自分だけ先

に帰れなかったのです。

そして翌日も朝礼をし、新人研修、個人面談、顧客訪問、採用面接などをし

て6時頃の列車で札幌に戻るというルーティーンを送っていたのでした。

2022.11.15

約41年間の歩みNO.45

北海道に戻った私は札幌支社の営業課長というポジションでした。

その頃同じポジションに私を含め3名いました。

北海道は広いですし組織構造が複雑になっていましたので3名だったのかな

とは思いましたが正直3名も必要なのか疑問もありました。

とはいえ、私の業務も多岐にわたっており呑気にしている時間はありません。

まずは新人育成状況の改善が急務だと感じました。

生命保険営業は最低限の業績を挙げないと会社に在籍することができないの

です。

新人には2つの査定基準が用意されていましたがコロナ禍の対応として緩和基

準が設けられていました。

その内容がなかなか複雑で札幌支社スタッフの中でも正確に理解している人が

いない状況でした。

ですがそんな事を言っていられません。何故なら査定は待ったなしですから。

スタッフのミスで新人の査定が通らなくなったら死活問題です。

私はこの査定問題を第一優先課題として取り組みました。

当時対象新人が20名くらいだったでしょうか。

1人別にシートを作成して徹底的に管理体制を敷きました。

勿論新人本人にもユニットマネージャーにも理解し把握してもらう為にシート

にコメントを付けて月初と月末に配布しました。

お陰で査定ミスで降格するような事態は避けられましたが問題は査定が通れば

食べていけるかということです。

お客様に対して最高の対応をして行くためには営業担当者自身が最高の心の状

態であることが望ましいのです。

ですが経済的に余裕がないと、どうしてもベクトルが営業担当者自身に向いて

しまう。つまり「俺のため(私のため)にこの保険に入って欲しい・・・」と

潜在意識が叫んでしまうのです。

そうならないためにも一定の期間はその方に見合った初期補給金が設定されて

いました。が、営業するには必要経費がかかります。

その認識が薄いと「こんなはずではなかった・・・」となりかねません。

精神的にも経済的にも窮地に立たされた営業担当者を多く見てきました。

そこから抜け出せるのは決して諦めない心構えと生命保険の意義役割にコミッ

トしお客様のニードを把握する傾聴力がある営業担当者だと確信しています。

2022.11.14

約41年間の歩みNO.44

本社に戻って半年が経過した頃に新人教育の在り方が大きく変わろうとしていました。

入社月に実施している研修が全員が一斉に研修を受講するスタイルから反転学習といって先に動画を視聴して予習してから集合研修を実施するというものに変わろうとしていました。したがって動画を視聴してこないと研修についていけないということです。

その研修スタイルそのものは効果的だと感じていました。

しかし、新人教育を主導する方を外部に依頼し全面的に変更するということでした。

この変更によって翌年からの全国本社集合研修は廃止となり、私はその変更内容を何とも複雑な気持ちで受け取りました。

11月中旬には翌年の人事異動が発表され、私は今までの教育Gから市場開拓Gに異動のオファーを受けたのです。

それは私自身の生命保険業界歴約41年の歴史に幕を閉じる前触れだったように思います。

翌年から市場開拓Gとなりましたが教育Gでの引継ぎが未了だったので2月中旬までは教育Gの仕事をしていました。

2月中旬からは市場開拓Gの仕事にシフトして行きましたが・・・

私は何とも馴染めないのでした。

メイン業務は「相続」でしたが明らかに会社として力を入れていない様子。

何とか軌道に乗せようと前任者のデータを読み込んでいると、防衛省のセミナー講師の依頼が舞い込んできました。

プレゼン内容は私でも問題なくできると思い独自で練習を開始しました。

ところがそんな矢先に世界的なコロナ禍で予定していたセミナーが中止に。

そして、私にとって初めての業務として業者との間で取り交わす契約書の作成をすることになり、悪戦苦闘しながらも最後に法務部の許可を得て社判を押印してもらえた時には大袈裟ですが心から晴れやかな気持ちになったものです。

やれやれと思っていた矢先にまたまた異動のオファーが・・・

6年ぶりに北海道に異動することになったのでした。

2022.11.13

約41年間の歩みNO.43

横浜をあとにして再び笹塚の本社に戻りました。

今度の業務も新人育成でした。

基本の業務は笹塚の本社で、新人研修は新宿の研修所に通いました。

私の好きな仕事に入社3ケ月間の業績全国NO.1の新人にインタビューをして

記事にまとめ全国の拠点に配信するものがありました。

生命保険の仕事はそれまでの人生に対して通信簿をつけられるようなもの

でもあります。どのように人間関係を構築してきたのかが問われる時もあ

って精神的に追い込まれる人も多く見て来ました。

なかには他社から転職してきた方もいましたが全くの未経験で全国NO.1

になった方も多くいました。

そういう方に電話でインタビューをして喜びの声を聴くことは私にとって

本当に贅沢な時間だったと感じています。

その感動的なストーリーを聴いて思わず涙が零れることもしばしば・・・

その方のユニットマネージャーにもお話を聴き、ユニットマネージャーの

献身的な支えがあっての結果でもあったと感じたものです。

拠点長からもお話を聴きました。今後の拠点の繁栄に欠かせない人材に育

って欲しいとの願いが籠った熱いコメントでした。

新人が育って行く背景には新人が持って生まれた能力もありますが環境も

大きく影響してきます。

そして何より、この生命保険という仕事にどれだけ心を砕けるか。

また、入社した会社を愛し、販売する商品を愛することができるか。

勿論、販売プロセスは大事です。

ですが敢えて会社と商品を愛して欲しいと伝えたい。

何故かというとお客様に自信をもって伝えられるからです。

そしてお客様にその自信が伝わるからです。

やはり入社初期の教育が重要だと思っています。

毎月生命保険の仕事に賭けて入社してくる新人が多くいることでしょう。

どうか生命保険の仕事の意義役割を心に刻み、会社を愛して商品を愛して

邁進して行って欲しいと心から願っています。

2022.11.12

約41年間の歩みNO.42

本社3年目の終盤に思いもよらないオファーが舞い込んできました。

何と私に横浜支社の拠点長を担当するようにとのことでした。

一瞬私は頭が真っ白になり、この時ばかりは即答できませんでした。

今までの私は一も二もなく返事をしていましたが一晩考えることに・・・

やはり年齢のこと、体調のことを考えると正直キツイかなと・・・

一晩考えて、引き受けることにしました。

営業拠点の人事異動のオファーは断ることもできます。

ですが11月も最終週になってからのオファーは先に何人かに断られたの

かも知れないと想像ができました。

切羽詰まったこの時期に私が断ると、また振り出しに戻ってしまいます。

それは私のポリシーに反すると考えたのです。

変なところに義理人情が働くのです。

私をここまで働かせてくれた会社に何か恩返しがしたいとずっと思ってい

ました。

勿論、私が受けたからといって、上手く経営ができるとは限りません。

ですが恐らくは営業拠点長としては最後のチャレンジになるであろうとの

想いもあり、清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちで受けさせていた

だきました。

着任後全員と個人面談をして拠点の課題を浮き彫りにしました。

私が思ったのは1人1人の自己効力感が低下して、能力があっても発揮で

きていないような感じでした。

私はまずは1人1人の自信を取り戻したいと思ったのです。

そこに居たメンバーの多くは心が純粋で素直な方々ばかりでした。

そしてユニットマネージャーも管下のメンバーに献身的な方々でした。

私はできるだけ多くの時間をメンバーに関わり、それぞれの想いを受け止

めたいと必死でした。

そして多くの知識やスキルを身に付けていただきたいと思い、地区本部や

本社から朝礼時のゲストとして来ていただき、貴重なスピーチや勉強会を

お願いしました。

メンバーにも継続的に得意分野の勉強会を担当していただき、拠点全体の

業績向上にも寄与していただきました。

採用活動にも力を入れました。

採用媒体はあまり好きではありませんでしたが使ってみることにしました。

かなり多くの方々を面接しましたが両者のニーズがマッチせず効果を感じ

ることができませんでした。

このように失敗も多くありましたが私の中で充実した1年を過ごすことが

できました。

ほんの1年で本社に戻ることになりましたが私にとっては2年にも3年に

も感じる中身の濃い1年だったと思っています。

最後に全員で送別会を開いてくれました。

私は最後のスピーチで体中の水分が全部出てしまうほど泣いていました。

私は本当に横浜のメンバーが大好きで離れるのが寂しかったのです。

2022.11.10

約41年間の歩みNO.40

東京での入院生活は3週間にわたりました。

札幌では一番上の姉が洗濯などをしてくれました。そして私の二男も当時札幌

で大学生だったので色々助けてくれました。

東京では三番目の姉が埼玉に居るので洗濯などをしてくれました。そして私の

長男が東京に居たので色々助けてくれました。

会社の方々にもご迷惑をかけた上にお見舞いに来てもらったり、仕事の上でも

種々助けてもらったりしました。

本当に感謝です。

喀血そのものは点滴や止血剤で止まりましたが原因の究明のため、あらゆる検

査を受けました。

肺のレントゲンやCTを撮影しましたが悪い物は見つかりませんでした。

この病院でも気管支内視鏡は口からでしたが恐れていたわりにはスムーズに検

査を受けることができました。慣れでしょうか・・・?

ただ先生が右肺の静脈が細くなっている部分があって、そこから出血したよう

だと仰っていました。

これが生まれ持った奇形なのか後からのものなのかは判明しないが狭窄した血

管を拡張する手術をしましょうと計画してくれました。

そして手術日を迎えました。

生まれて初めての手術ということで心臓がドキドキしていましたが部分麻酔な

ので意識はハッキリしています。

鼠径部からカテーテルを狭窄している部分まで通し拡張させました。

音や感触などがハッキリ聞こえるし感じるし・・・

ですが生々しいけど冷静になって行く自分がいたのです。

手術は無事成功し日を追うごとに元気になっていきました。

定期的に検査を受けてはいますが正式な病名は何だったのか未だに不明。

昨年もまさか喀血?と思って夜中に病院に行きましたが私の勘違いだったよう

でした。

やはり健康が一番です。今まで仕事仕事と身体を酷使して来たので「少し休み

なさい」ということなんだと自分に言い聞かせていました。

2022.11.09

約41年間の歩みNO.39

札幌での入院は2週間くらいだったと記憶しています。

一番嫌だったのが気管支内視鏡検査!

もう死ぬかと思うほど苦しい思いをしました。

口から内視鏡を入れて気管支の状態を診るわけですが肺に空気が全くはいらない。

と、思ってしまうのです。

実際は本当に細い管なので空気は入っているはずなのですが・・・

一度鼻からも入れたことがあったのですが口から入れるよりは楽だったような・・

色々検査をしましたが結局原因はわからず。

退院後も定期的に検査をしてもどこも悪い所がみつからない。

そして、2年半後の東京でまた同じ状況になったのです。

会社のトイレで異変に気付いた私は即病院に行き手当を受けました。

ですが止血剤を処方してくれるのみ。

そのまま帰宅してベッドで横になり起き上がった瞬間にまたまた大量喀血!

これは前回より酷いと感じた私はまたまた救急車を呼ぶことに。

暫く待つこと20分くらいだったでしょうか。

救急車に運ばれた後が大変でした。

受け入れ先が全くみつからないのです。

救急隊員の方々に励まされながら何時間も救急車の中で横たわっていました。

その時やっと受け入れてくれる病院が見つかり救急隊員の方々と喜びを分かち合

うことができました。

その後の流れは札幌の時とほぼ一緒です。

しかし驚いたことがありました。

看護師長が「現在大部屋は満室です。個室は空いていますが一泊〇万円です。

どうしても大部屋が良いということでしたら他を探してもらうしかありません。」

え~!この状態で他の病院探す?

と心の声・・・

そりゃあ、個室に入るでしょう。入りますとも。

「大部屋が空いたら私を移動させてくださいね。」

とお願いを忘れませんでした。

2022.11.08

約41年間の歩みNO.38

東京ライフ3年目に入ったある日、会社のトイレで異変を感じました。

実は札幌勤務の時にも同じ経験をしていたのです。

出張で旭川営業所に行き朝礼後鼻血が止まらなくなりトイレに籠りました。

かなりの時間止血を試みましたが止まらず、タクシーで病院に行って診ても

らい点滴で様子をみることに・・・

やっと少し落ち着きました。

先生から札幌に帰るなら今のうちに帰った方が良いと言われ、JRに乗って札

幌へ。

部屋に着いた私は先生の言う通りに大人しくベッドに横たわり身体を休めま

した。

夜中になってお腹が空いた私は起き上がろうとしたその瞬間・・・

大量の喀血をしてしまったのです。

吐血ではなく喀血。

つまり胃からではなく肺からの出血でした。

とんでもなく出る血を見て自分の身体が自分のものではないような不思議な

感覚になったのを昨日のことのように覚えています。

だんだん息ができなくなり歩くのもやっとの状態になり命の危険を感じた私

は人生で初めて救急車を呼びました。

救急車が到着するまでの時間は途方もなく長く感じられました。

やっと到着した救急隊員に抱きかかえられ救急病院へ。

コロナ禍にある今だったら救急病院での受け入れも困難だったと思います。

それでも何件か断られながらも大きな病院で受け入れてもらえました。

病棟に入る前の待機室のベッドの上に横たわる私にいきなり現実が・・・

看護師長が「長谷川さん、入院になりますが個室と大部屋とどちらが良いで

すか?」・・・

最初は何を質問されているのか呑み込めずキョトンとしてしまいました。

業を煮やした看護師長は再度「個室は差額ベット代がかかりますが大部屋は

かかりません。どうします?」

やっと理解できた私は次の瞬間「差額ベットだといくらですか?」と訊いて

いました。

この時もずっとベットの上で横になりながら。

そして貧血で真っ青になりながら・・・

現実は厳しいとこの時も思い知らされたのでした。

2022.11.07

約41年間の歩みNO.37

生命保険業界のトレーニングの代表的なものにロープレがあります。

勿論、覚えたトークをただひたすらお客様に捲し立てるなんてことがあっては

いけませんがある程度商談の流れをイメージして練習しておく必要があります。

そして予想されるお客様の質問や断りに対しても何通りかの引き出しをもって

いると安心して対応できます。

そして、目で見える商品と違って、将来の安心を買っていただくには商談の中

で一瞬疑似体験していただくことも必要になって来ます。

そのお客様に合った事例を用いたりする過程で営業担当者は自分の言葉に想い

を乗せて伝えなければお客様の心には届きません。

その為にも、日頃から知識としてインプットしたものを自分の言葉でアウトプ

ットするロープレが有効なのです。

ただ、このロープレを好きな営業担当者は殆どいません。

できれば避けて通りたいと思っています。

日頃の担当職務を超えた本社メンバー5人でプロジェクトを組み、拠点にロー

プレ文化を定着させるしくみとして全国ロープレ大会を企画しました。

私の所属していた教育部が予算を立てることになりプロジェクトがスタートし

たのです。

まずはテーマの決定です。

生命保険営業のプロセスは大きく分けて、アポイント、アプローチ、ファクト

ファインディング、プレゼンクロージングとなります。

ファクトファインディングとはお客様のニーズがどこにあるのか、将来の夢は

どのようなものなのか、そしてお客様の正確な現状をお聴きする段階です。

プロジェクトが発足してから5年間継続しましたが毎年テーマを変えて開催し

ました。

初年度はアプローチだったと記憶しております。

拠点代表決定ロープレ大会、地区本部代表決定ロープレ大会、そして全国NO1

を決める全国ロープレ大会に駒を進めて来た全国7名の代表者を迎え第1回目

の全国大会を烏山区民会館で開催しました。

本来はカナダ大使館での開催を検討していましたが会場が空いておらず断念し

たのでした。

ですが烏山区民会館のステージも広く立派でした。

全国から集まったファイナリストは本社スタッフが務めた顧客役に対応しなが

ら、見事なパフォーマンスを発揮していました。

また、拠点から応援メッセージを送ってもらいロープレの前に上映しました。

楽しいメッセージやらグッと来るメッセージやら笑っちゃうメッセージやらで

拠点の特徴がとてもよく伝わってきました。

私は司会として一部始終を近くで観ることができ、とても学び多き1日でした。

2022.11.06

約41年間の歩みNO.36

本社に入ってすぐにタイに出張しました。

生命保険業界にはMDRTという1927年に発足し卓越した生命保険・金融

プロフェッショナルが集う組織があります。

世界中の生命保険および金融サービスの専門家が所属するグローバルな独立

した組織です。

MDRT以外のメンバーも参加することができる自社MDRTエクスペリエンス

というミーティングがありスタッフとして参加したのです。

海外はアメリカ、カナダ以外には行ったことがなかったので凄く嬉しかった

です。しかも初のアジア圏!!

夜のパーティーに着る洋服などないなあ。。。

私はスタッフなので気にすることなどなかったはずなのに。

久しぶりにデパートに行ってワンピースとジャケットを購入しました。

タイはやはり暑かった!

噂には聞いていましたが信号はあって無いようなもの。

いつ車に轢かれてもおかしくない状態でした。

屋台には沢山の食べ物が売られていましたが、やはり衛生状態はよろしくな

い感じ。

私はすぐお腹を壊してしまうので食べていたら一発アウトだったと思います。

式典での私は優績者にステージでインタビューをする担当でした。

椅子に座り斜めに向かい合ってインタビューをしている様子を写真に撮って

もらったようでした。

しかし・・・その写真はボツとなってしまったのです。

何故かというと、撮った角度が私の太い脚を更に太くしていたらしいのです。

したがって、インタビュー写真はもらえませんでした。残念!

2022.11.05

約41年間の歩みNO.35

1級は私にとって苦い学びを得る場となりましたがここで学びを止める気持ちには

なりませんでした。

次はトレーナー資格を得る講座が待っていました。

今まで多くの営業担当者に会っていた私は、この講座は初めて生命保険営業をスタ

ートした方には特に必要だと感じていました。

お客様とできるだけ早く信頼関係を結ぶにはどのような関りが有効なのか、理論と

ワークを活用して伝えたいと思ったのです。

ここでの学びはこの先の人生に大きな影響を与えました。

定期的に全国の仲間が東京の会場に集合し実践的なワークを練習しました。

時には辛辣な指摘を受けて涙を流すこともありました。

ですが決して辛い涙ではなかったと私は思っています。

互いに研鑽し合いながら過ごしたこの月日はかけがえのない日々でした。

そして認定試験当日、試験官2名の前で指定されたテキストのページの講義をする

のでした。

緊張しましたが、凄く楽しかった!

やり切った!!と自分を信じることができたのです。

何故ならば、試験日5日前に突然声が嗄れていつもの声が出なくなったのです。

そして、ついに全く声が出なくなり・・・

私は焦って病院で吸入をしてもらったり飲み薬を飲んで誰とも話さない日々を送っ

たのです。

私は発声をせずに講義をする練習を重ねました。

頭の中でイメージしながら何度も何度も立って身振り手振りをしながら・・・

誰かに見られていたら笑われたと思います。

何と翌日が試験日というタイミングで少しづつ声が戻ってきました。

そして、無事に受験でき合格証を得ることができたのです。

私はこの体験からも、「描いた夢は必ず実現する」ということを信じることができ

ました。

その上私にとって生涯の大切な仲間を得る事ができたのです。

2022.11.04

約41年間の歩みNO.34

2級の次は1級です。

次も即申込みました。

また全く違うメンバーでチームで活かすコミュニケーションを学びました。

2日間のカリキュラムでしたが私はグループの皆さんに迷惑をかけないように

したいと思っていました。

何故かというと私は何か問題が出された時に、その意図を理解するのに時間が

かかってしまいます。

ちょっと大袈裟かもしれませんが頭が真っ白になってしまう瞬間があるのです。

冷静に考えれば何てこともないのですが・・・

同じグループにちょっと苦手なタイプの女性がいました。

グループでのゲームでしたが私がなかなか上手くできないことにイライラして

いる様子がアリアリと見て取れました。

「あー、こういう人って本当にいるんだなあ。」と残念に思いながら自分がや

れるベストを尽くそうと頑張りました。

この経験も私にとって必要なことだったと今は思えます。

2022.11.03

約41年間の歩みNO.33

東京ライフも軌道にのってきて、楽しみにしていた学びを深める講座に通

おうとネットで探しました。

今の私が学びたい講座は・・・

コミュニケーション能力認定2級講座が最初に目に飛び込んできました。 

即申込みを完了しワクワクした気持ちで当日を迎えました。

当日は全国から集まった男女30名くらいだったと思いますがグループに

なって座り、ちょっと緊張した面持ちで開始までの時間を待っていたのを

思い出します。

10時スタートで18時30分終了。最後は認定試験で締めくくりました

が全てがドキドキしながらも楽しくてアッと言う間に時間が経過しました。

この講座は心理学に基づいて構成されたプログラムでインプットとアウト

プットがバランスよく組み込まれておりグループの方達ともすぐに仲良く

なれました。

2級は基本的な内容でしたが聴くスキルと伝えるスキルはどの年代層にも

何度でも受講しても良いと感じています。

その時々の置かれている状況によって捉え方は変化して行くものと思いま

すし、日々の忙しさについ意識から外れてしまうこともあろうかと思いま

す。私も改めて学び直し新しい気付きが沢山ありました。

そして人間の心理というものは脳のしくみと関連していることを学び事例

を聞きながら深く頷いてしまいました。

2022.11.02

約41年間の歩みNO.32

もう一つのムービーは新人営業教材です。

生命保険販売には販売プロセスがあり、人間の購入心理に沿って形成されて

います。

ベテランの営業マン(ウーマン)にはこのプロセスを瞬時にグルっと回して

成果を挙げている方も多くいます。

ですが新人はこのプロセスの一つ一つの目的を丁寧に理解してもらう事が必

要ですし、またどのような態度や表情や言葉で質問したり答えたりするのが

効果的か映像でイメージを掴んでいただきたくて制作しました。

出演者をどうしようかと悩みましたが実際の営業担当者ですと営業時間を割

いてもらうことになりますし、何かの事情で退職となった場合も考えて外部

の方にお願いすることにしました。

となると・・・出演料もかかりますし演技力も必要です。

色々考え、何と私は長男に新人営業マン役を依頼することにしたのです。

彼は当時東京で役者を志し修行を積んでいました。

大学卒業後は不動産会社で働いていましたが某テレビ番組の「〇〇〇過ぎて

伝わらないものまね選手権」に出演したところ準優勝となり、そこからプロ

に転向することを決心していたのです。

私が膨大なプロットやスクリプトを書き業者の方が脚本に仕立てて下さり、

絵コンテでイメージを描いてくれました。

それを彼は短期間でセリフを頭に入れ、3日間の撮影に睡眠時間約2時間で

耐え凌ぎ、殆ど数回のテイクで撮影を完了することが出来たのです。

この時ばかりは我が息子でありながら深く感心してしまいました。

ギャラについて会社には一切請求せず、実績だけをいただきました。

勿論、母親としては自腹で彼のスーツを新調し成果に見合うだけの謝礼はし

たつもりです。

ただ、それ以上に豊かな経験をさせてもらったと感じています。

2022.11.01

約41年間の歩みNO.31

2年目は同じ営業教育部でしたが新人担当となりました。

私にとって一番大きな出来事は新人教育テキストの改定から動画コンテンツの

導入など全国のトレーナーと連携して新しい物を創り上げることができました。

会社のビジョンや研修の考え方などを共有し試行錯誤した経験は私の財産です。

制作にあたって誠意をもって尽力してくれた業者の皆様にも心から感謝してい

ます。

特に商品研修動画につきましては10商品全種類を何度も商品部からダメ出しを

受けて修正を重ねることになり大変ご迷惑をおかけしました。

それでも出来上がった動画を全国の新人が視聴してくれるようになり、トレー

ナーの負担が少しは軽くなったのではないかと思っています。

動画と言えば忘れてはいけない動画が2つあります。

1つは全国の営業担当者向けのショートムービーで他グループの方々で構成し

ていたプロジェクトの作品です。

それは家族を守る生命保険の必要性を謳ったムービーでした。

俳優の卵の方々に実際にオーディションに参加してもらい出演者を選びました。

ムービーそのものは15分ほどでしたが撮影は3日かかったと記憶しています。

一般家庭での撮影だったり病院で入院している状況での撮影だったり様々な場

面での撮影を妥協無く撮り続けました。

私はこの時初めて映画の世界を垣間見て衝撃を受けたのでした。

苦労を共にした想い出の作品として出演した俳優の方々も今でも大切に思って

いてくれているようです。

2022.10.31

約41年間の歩みNO.30

初めての東京ライフはとても新鮮でした。

部屋は1LKで一人暮らしには充分な広さでした。

キッチンが広くて鮭も捌けるほどのシンクの大きさがありましたが

残念ながらお料理をゆっくり作る時間は持てなかった?持たなかっ

た?です。それでも埼玉の姉や長男が遊びに来てくれた時には腕に

よりをかけてお料理を作っていました。

勤務地は代々木のクイントビルだったので千歳烏山駅から京王線で

13分という距離。

いつも車窓から街並みを眺めているとアッと言う間に到着。

1年目はユニットマネージャー担当として研修をしたりデータを作

成して配信したりしました。

その他には他グループの方とプロジェクトを組んでロープレコンテ

ストを企画開催しました。

全国の拠点でロープレ文化が定着することを推進するためにチーム

で何度も話し合いました。

拠点大会、地区本部大会、全国大会と勝ち抜いて来た出場者を全国

大会で迎え最高のパフォーマンスを発揮してもらえるよう準備を整

えました。

1年目の会場は烏山区民会館、2年目はカナダ大使館で開催するこ

とができました。

大きなステージにテーブルとイスを用意し、お客様宅で商談してい

る様子を披露していただくのです。

毎年テーマを変えて各拠点の創意工夫を競います。

応援のメッセージビデオもとても秀逸なものばかりでした。

このロープレコンテストは5年間継続することができ、私の本社で

の大切な想い出です。

当日の私の役割は司会だったので出場者の方々と一番近くで接する

ことができました。

緊張と期待に包まれたエネルギーがステージ上に渦巻いていました。

2022.10.30

約41年間の歩みNO.29

イベント企画などの活動を評価してもらい社長賞をいただくことになりました。

六本木ヒルズで開催された記念パーティーに当時東京で就職していた長男と二人

で出席しました。

色々な部門で選ばれた方が家族を同伴し出席していました。

素晴らしい方々と素晴らしい料理が歓迎してくれました。

長男がスピーチで私のプライベートを暴露したりして恥ずかしい思いもしました

が、それだけ大人になったのだな、と感慨深かったです。

そして、その年の秋に東京本社への異動のオファーがあったのです。

流石に北海道から離れることについては多少の躊躇はありました。

ですが長男が東京で就職していたこと、三番目の姉が24歳で結婚してから埼玉

にずっと住んでいたことなども決めてになりました。

何よりも女性初のマネージャーとして営業教育部に配属になったことが嬉しかっ

たので私の想いを家族に伝え了解を得る事ができました。

本社に行くことは私の究極の願いでした。

「心に描いた夢は必ず実現する」を信じて来たことが実った出来事でした。

翌年1月に世田谷区烏山に引っ越し、私の東京ライフがスタートしたのです。

2022.10.29

約41年間の歩みNO.28

最終的には3つの営業所が2つの営業所になりました。

一番人数の少なかった私の営業所は半数づつ振り分けられたのです。

最後まで全員一緒にと願いましたが叶いませんでした。

私の業務は片方の営業所に入社する新人営業マン(ウーマン)の育成

でした。ユニットマネージャーは3名だったと記憶しています。

この頃一番記憶に残っているのは見込み客発見の一環でイベントを企

画し実行したことです。イベントと言っても全てを自分で企画したの

ではありません。市などで企画しているイベントを紹介してもらって

参加する形でした。

例えば、子供が自由に参加できる遊び場を各企業が提供するイベント

です。

私たちはお祭りをテーマにヨーヨー釣りなどの出店を出しました。

また、先に書いてもらっていた似顔絵をブースに展示したり、会社で

所有しているビーバーの着ぐるみを着たりして楽しんでもらいました。

また、アンケートを書いてもらって抽選もしました。

その他には市のマラソン大会にブースを出しました。

マッサージ店とタイアップしてランナーのケアをしてもらい喜んでも

らいました。

色々やってみましたが見込み客が増えたかといえばなかなか難しかっ

たというのが本音です。ですが、知名度アップには大きな貢献をした

と自負しています。

ごく限られた予算内でのチャレンジでしたが営業の方々と一緒にでき

たことがとても意味のあることでした。

提案を受け入れてくれた上長に心から感謝しています。

2022.10.28

約41年間の歩みNO.27

 アッと言う間に2年が経過し上長も変わりました。

次の上長も第百生命出身者でした。

どちらも私より年下の上司でしたが見識が高く人間性に溢れる素晴らしい方々

でした。

目標意識が高く常に会社に貢献しようと努力する姿に、私は共に成長したいと

心に決めていました。

そんなある日、上長から営業拠点長のオファーがあったのです。

返事は「YESかハイで」というニュアンスが伝わってきて、ほぼ即答状態だった

と記憶しています。

その営業拠点はとても難しい問題を抱えていました。

前任者は営業力もあり殆どのメンバーから慕われていましたが特定のメンバーと

の間に誤解があり関係が悪化した為、問題解決を図ろうとの意図で一旦営業現場

から距離を置くことになったのだと思います。

私は8年ぶりに営業拠点長になることに相当な覚悟をして初日を迎えました。

そこには60歳を過ぎてから特別枠で入社した営業力が高く人間的な魅力に溢れ

た女性や、凛とした佇まいが素敵でスポーツ万能な女性などがいました。

勿論営業力が高くインストラクションスキルが高い男性陣も何人もいました。

私は「この人たちの胸を借りて働きやすい職場を作ろう」と奮い立ちました。

結果、年間目標を達成し翌年の全国営業会議で表彰され、ダイヤ入りのバッチ

と本革の手帳カバーを頂きました。今でも大切に使っています。

2年目に入り様々な問題が発生して来ました。

やはり一筋縄にはいかないものです。

その上、戦略的な組織統合で3つの営業拠点が2つになると発表されたのです。

前年の業績結果は一番良かった私の拠点は人数が少なかったため統合される事

が決定しました。

この時ばかりは説明に来た本社営業トップに悔しくて納得いかず泣いて抗議を

してしまいました。

それは私自身のためではなく、頑張って来た拠点のメンバーに本当に申し訳が

立たなかったからです。

2022.10.27

約41年間の歩みNO.26

トレーナーになった頃はまだ拠点での新人研修だった為、全道各地の拠点に訪問し

 研修を実施していました。

その後全道各地で入社した新人に札幌に集合し、ほぼ1ケ月間新人研修を受講して

もらうようになりました。

つまり札幌以外の新人は会社が借りた宿泊先から札幌の研修室に通うのです。

基本的に金土日は帰省し翌週月曜日にはまた集合という流れだったと記憶していま

す。(金曜日は現地の拠点に出社)

この頃、とても大事にしていたことがあります。

それは、「何故この業界に入ったのか」「何故この会社に入社したのか」

「この会社で何を実現したいのか」という3点を新人に問いかけた時に淀みなく

言語化できるようにロープレを徹底することでした。

これをマイストーリーの構築と名付け、多くの時間を費やしました。

このマイストーリーを構築することで生命保険営業をスタートする心構えができ、

生保営業マン(ウーマン)の軸ができるのです。

生命保険営業の仕事は本当に厳しい仕事です。

形のある商品を販売する場合にはお客様の購入心理はゼロ地点からスタートする

のが一般的かも知れません。

しかし、生命保険を販売する場合はマイナス地点からスタートするのが一般的だ

と言われています。

何故なら、殆どの方が生命保険営業に対して誤解している場合が多いからです。

誤解を招くような販売方法が多かったのも事実かも知れません。

ですので、マイナスからゼロ地点まで上げて行くためには信頼できる営業マン

(ウーマン)なのか、次の話しも聞く価値があるのか・・・このマイストリー

がとても大切な要素になっていると捉えていました。

そして、営業マン(ウーマン)のメンタルブロックに対する最大の防御策とも

捉えていたのです。

2022.10.26

約41年間の歩みNO.25

 充実した日々を送っているなかで全道のユニットマネージャー会議が札幌で開催

されることになり、私は管下のユニットマネージャーと共に出席しました。

私には事前に組織運営についてプレゼンするようにと指示がありましたので資料

を準備していました。

いざプレゼンしてみると今まで通って来た道のりが走馬灯のように脳裏をかすめ

支えてくれたメンバーに感謝の気持ちがグワッと湧いてきました。

日々採用活動をして仲間を増やそうと工夫してくれていること、新人には基礎を

身に付けさせるため毎朝早く会社に来てロープレをしてくれていることなどを、

スライドに書いてあることの上に想いを言葉に乗せて伝えました。

そのプレゼンを本社教育部の方が見てくれていたのでした。

その年の秋、私は道東の釧路から札幌に異動することになったのです。

しかも、その本社教育部の方が私の上長になりました。

職務は北海道にある営業拠点に入社する新人のトレーナーでした。

私は再度職務変更となり内勤職員となりました。

その時長男は高校2年生、二男は中学3年生。

私は半年間は転居せず釧路をベースに出張の形をとらせていただきながら仕事

に慣れて行きました。

そして、翌年3月には札幌に転居して本格的に単身赴任生活がスタートしたわけ

です。夫には息子たちのお弁当を毎朝作って持たせてもらい感謝しています。

義理の父母には毎晩の夕食を助けてもらったり息子たちの塾の送迎など大変お世

話になりました。

仕事が忙しいときは2ケ月に一度しか帰れない時もありましたが、トレーナーの

仕事は私の天職だと思うほど好きな仕事でした。

そして、新しく出会える新人の皆さんが「この仕事をして良かったな、この会社

に入社して良かったな」と思ってもらいたい!!

そんな想いが私を突き動かしていたのです。

2022.10.25

約41年間の歩みNO.24

新しい戦力が加わり私の組織は変化の兆しが見え始めました。

しかし、組織の現状は女性8割の世界でしたので簡単に馴染むことは出来

なかったと思います。

ですがベテランのお姉さまたちが生命保険営業について、商品の特徴につ

いて、契約保全の大切さについて、事務処理について多方面から応援して

くれました。

そして、丁度導入されていたロジカルに体系立てられたコンサルティング

手法を駆使し彼は見事な生保営業のスタートを切ったのです。

当時の私は男性拠点長の管下にいるユニットマネージャーという立場でし

たがユニット内の人数は20名いました。

更に組織を拡大して行くには私の右腕左腕が必要です。

既にユニット内にはユニットマネージャーが存在しておりましたが、いつか

私がこの組織を離れることになっても拠点長として任せられる人材を育てた

いと思っていました。

そこで新人ではありますが彼に期待をかけてみたのです。

数か月後には男性2名を採用し、コンサルティング手法を徹底的にトレーニ

ングし、新人育成に貢献してくれました。

その結果ユニットマネージャーに昇格してくれて私の組織は体制が整いつつ

ありました。

他にも私が事務員だった辛い状況の時に親しくなった元教員で博学の女性や

営業バリバリでスキルの高い優績者の女性、他外資系生命保険で活躍後に転

職して来た男性のユニットマネージャーに支えられて業績も陣容も右肩上が

りで成長して行きました。

私がユニットマネージャーをしていて一番遣り甲斐があって心から楽しめた

時期でした。

2022.10.24

約41年間の歩みNO.23

 厳しい状況に一筋の光が見えたのが2004年の後半。

きっと無理だろうと半ばあきらめていた外車販売トップセールスマンが

私の組織への転職を考え始めてくれたのです。

実は私の高校時代の後輩であり、夫の野球仲間でもありました。

まだお子さんも小さく、これから教育費がかかる時期です。

私はだからこそ、生命保険業界にお誘いしたのです。

ご存知の方も多いかと思いますが、生命保険のビジネスは最低保障給与

はあるものの基本的にはフルコミッションの世界です。

しかも私が在籍していた会社は、契約が挙がれば挙がっただけの給与が

支払われました。つまり青天井なわけです。

彼は人脈も多く、営業力も高く、地頭も良い!まさに会社が求める人材

の要素を殆ど兼ね備えていたのです。

そして、2005年1月に入社が決定!!

私にとっては青天の霹靂!!!

ただ、嬉しくて小躍りしたくなる自分と、彼の人生を背負う責任に潰さ

れそうになる自分との葛藤もありました。

そして、私はその責任を全力で全うしようと心に誓ったのです。

彼に比べて人脈も営業力も地頭も低い私でしたが、責任感と行動力、何

より相手の話をしっかり聴くことは自分の強みだと思っていました。

そして、人としての器を磨き高めることを目指し各種の自己啓発を始め

たのです。

「心に描いた夢は必ず実現する」

今もこの言葉を信じて毎日チャレンジを続けています。

2022.10.23

約41年間の歩みNO.22

 私はオフィスでの立場がだんだん小さくなって行くのを感じていました。

本社からも尋問のような聴き取りがあり不安定な状況が続きました。

新人は成績が優秀でしたので会社としても大切にしたかったのだと思いま

す。

その時の私にできることは、やるべきことをやるだけ・・・

そう心を切り替え、できるだけ平静を保とうと努力しました。

ベテランの方々の助けも得て元気を取り戻していったのです。

そして、次に私に元気を与えてくれたのは本社の全国新人研修のサポート

業務でした。

3ケ月に一度は自ら希望し本社までサポートに行きました。

そこで得た知識や経験を自分の組織で活かしたいとも考えていました。

その時の本社研修スタッフは熱意の塊みたいな方ばかりだったと記憶して

います。研修チームのトップは「こんなにロジカルに納得行く話ができる

人っているんだ!」と思うような素晴らしい講師でした。

数年後には独立されて会社から離れてしまいましたが会社にとって大きな

財産を残してくれたと思っています。

この時期は、辛い経験もしましたが、それ以上に心が豊かになる経験をす

ることができたと感謝しています。

全ての出来事は私が成長するためにあったのだと今なら思えます。

2022.10.21

約41年間の歩みNO.20

 ユニットマネージャーとしてスタートしたのが2003年4月1日のことです。

権限や会社からの情報量は極端に減りましたが日々のルーティーン業務は

殆ど変わりません。ですが採用、教育、育成に対する考え方がガラリと変

わりました。

そして一番変わったのは営業教育の在り方、トレーニングの考え方、営業

手法でした。

それまでの新人営業職員に対しての研修は契約募集ができる最低限の資格

を得るための一般過程試験に合格することを目指した研修でした。

ですので、講義や模擬テストが中心でした。

無事合格後は商品勉強です。数多の商品から代表的な商品をパンフレット

や約款を使って教えていました。

その新人初期研修が大きく変わったのです。

それまでは入社した拠点だけでの研修でしたが試験合格後の翌月には全国

の新人営業職員が東京本社に集まり合宿研修のような形態で集合研修が行

われるようになりました。

その研修はロープレ中心の実践的研修であり当初は夜遅くまで本人が納得

するまでロープレが繰り広げられていました。

当時の主力商品であるユニバーサル保険を販売する為にお客様の購入心理

に沿ってアプローチフリップ(紙芝居のようなもの)が全職員に提供され、

そのフリップを使いながら、いかに自分の言葉で会社や自分の想いを伝え

られるかを繰り返し練習したのでした。

私は、まさに目から鱗が落ちる状態で、心の底からワクワクが止まらない

気持ちでいっぱいだったのを昨日のことのように覚えています。

また、ユニットマネージャーの研修も新設されました。

新人研修が変わったのですから当然の流れではありましたが・・・

ここで改めてコーチングの基本を学んだのです。

今までは営業の方々に業績の見込み状況をメインに確認するという面談で

したが、レビューという名のもとにコーチングを駆使して育成して行くと

いう手法を取り入れていきました。

その時のバイブル書籍がヒューマンバリュー編著の「コーチングの技術」

です。

今でも大切な書籍の一冊として繰り返し読み、都度新たな気付きを与えて

もらっています。

2022.10.20

約41年間の歩みNO.19

 毎日エキサイティングな日々を送っていたある日、札幌の地区本部に集まるよう

全道の営業拠点長全員に招集がかかりました。

あまり深刻に考えずに行った私は、この後大きな人生の岐路に立たされます。

私は事務員から入社して、所謂内勤職員として色々な職務を担当して来ました。

どこかで、いつかは事務員に戻るという選択肢を残していたのかも知れません。

ところがその後私に言い渡されたのはマニュライフ生命で初めての試みである

ユニットマネージャー制度の第1号になって欲しいというオファーでした。

つまり営業職員の身分に職種転換を言い渡されたのです。

誤解がないように記述しておきますが営業職員が嫌だと言っている訳ではあり

ません。ただ、業績も在籍者数も順調だったのに何故私が所謂降格となるのか

納得が行かず上長に確認しました。

しかし全く筋の通らない説明ばかりで話になりません。

退職をも覚悟で最後の手段として私を拠点長に任命した本社の部長に直談判を

しに東京本社まで行って説明を求めました。

当然、勿論全く歯が立たず・・・

私はこのまま泣き寝入りしたくない!と悔しさに地団駄を踏みながらも先々の

人生に想いを馳せました。

フッと、「今は修行のとき。耐えるとき。起きる出来事を俯瞰して見ることを

学ぶように。」と誰かに言われた気がしました。

その時、私はこのオファーを受けようと決心しました。

全く一からのスタートです。再入社したと同じ待遇になり全く権限も無くなり

内勤が受ける情報も一切入らなくなりました。

それでも私が心を保ち続けていられたのは一緒に働く営業の方々のお陰でした。

今では、この経験が私を強くしてくれたと思っています。

2022.10.19

約41年間の歩みNO.18

 毎日が怒涛の如く流れて行きました。

そして、翌年2001年の春には既契約者のご契約処理がやっと可能になり

解約の申し出に対応することができました。

それまでは解約処理もできない状況でしたので、お客様のお怒りは本当

にピークに達していました。

いざ解約処理をすると経過年数や種々の契約条件でかなり差がありまし

たが、殆どのご契約がマイナスとなっており、本当に申し訳ない思いで

いっぱいでした。

その後の2001年9月にはマニュライフ生命保険株式会社と社名変更をし

第百生命つまりセンチュリーが消えてしまいました。

この時はとても寂しい気持ちでいっぱいでしたが、ここからマニュライフ

の社風に大きく転換して行ったのです。

その一つが翌月の10月にユニバーサル保険が販売されたことです。

貯蓄と保障のバランスを状況に合わせて変えて行ける保険。

必要な時に必要なだけ最適な方法で貯蓄と保障を備えていただける画期的

な保険です。「変えて行く人の変えられる保険」

一つの保険で9人まで一緒にご加入できる。

主契約は何と貯蓄!医療保障も死亡保障も全て特約!

木で表現すれば主契約は幹で保障は枝葉です。

つまり、幹である貯蓄が基本であり、生きることが大前提なのだと教えて

もらった時、この保険で生命保険業界を変えたい!!と思ったのは私だけ

ではなかったと思います。

この保険を販売するために本社教育部の方々は全国行脚をして丁寧に教育

してくれました。

私が41年間も在籍してこれたのは大好きだった第百生命を救ってくれた

マニュライフ生命に恩返しをしたかったからだと思っています。

2022.10.18

約41年間の歩みNO.17

 破綻からの毎日はあくる日もあくる日もお客様対応に追われました。

毎日多くのお客様が明確な説明を求めて会社に来店されました。

しかしながら社員である私たちも答えを持っていません。

私たちどころか本社の役員もです。

既に破綻しているわけですから金融庁の判断を仰ぐしかありません。

そんな状況が3週間も続いた頃だったでしょうか?

上長から呼び出しがあり支社に行って話を聞くと「新しい契約募集の

活動はできているか?」とのこと。

私は「?」が心の中で広がりました。

その問いをよ~く咀嚼してみると「お前たちの在籍している会社は

マニュライフセンチュリー生命だぞ。毎月新しい保険募集をするのが

本業だぞ。」と言っていたのです。

私はせめて1ケ月は既契約者対応に専念させて欲しいと頼みましたが

上長が首を縦に振ることはありませんでした。

そして、すぐに私の心に去来したのは、拠点に帰って皆に伝えたら何

て言うだろう?反発されるんじゃないか?という不安でした。

ですが、考えていても仕方がない。伝えるしかない。と心を決めた私

は、次の日の朝礼で毎日のお客様対応を労ったあとで、「今後、大切

なお客様の担当者として既契約を守るためにも自分たちがしっかりと

マニュライフセンチュリー生命に在籍して行かねばなりません。

そして、お客様を増やして行くことが大切です。今月の締め切りまで

後1週間ですね。お客様のニーズに沿ったご契約を、全員が最低1件

以上お預かりしましょう。」と心を込めて伝えました。

営業の皆さんは私の言葉をしっかり受け止めてくれ、破綻した月にも

関わらず全員が新しいご契約をお預かりすることができたのです。

私は締め切りの日、感動で声が震えてしまいました。

2022.10.17

約41年間の歩みNO.16

 翌年も業績、採用活動は順調に推移しており再度入賞?と思いきや結果全国5位か

6位だったと記憶しています。3位までが入賞だったので残念でしたが全国の営業

担当者が大勢該当になった為、初年度とは全く違った形式での表彰だったとのこと

でした。私は初年度に行けて本当にラッキーでした。

そして、日本の生命保険会社から外資の生命保険会社の体制に少しづつ変わって行

きました。

転籍してから1年と少し経過した2000年5月31日、ついに運命の日がやってきます。

私は夕方オフィスに居ました。その頃はまだオフィスにピンク電話が置かれていて、

お客様からも頻繁に電話がかかってきていました。

その日もいつものように「リーンリーン」とピンク電話から呼び出し音が・・・

私はこれまたいつものように「はい。マニュライフセンチュリー生命の長谷川です。」

と名乗り電話を受けました。電話の向こうでは「今、テレビでお宅の会社が破綻した

って言ってるけど本当なの?」と・・・

私は思わず「え~!!」と叫んでしまいました。

オフィスの中にいた事務員さん、営業の方々も一様に私の方を凝視していました。

すぐに「確認させていただきます。」と切電し上長に連絡しました。

そこで真実を知りました。

既契約を保全していた第百生命が破綻したのです。。。

そこからは怒涛の日々が続きました。

破綻当日はお客様窓口は閉店しているにも関わらずお客様が押し寄せて来ました。

対応できない状況でしたのでお帰りになるのを待つしかないわけで。

本当に辛かったです。お客様に申し訳なくて何とかして納得できる説明をしてさし

あげたかった。でも叶わなかったのです。

その日は帰るに帰れない状況で夜中の2時頃にやっと帰ることができました。

私は自分自身も保険募集はしていましたが営業担当の方々の比ではありません。

皆さんは自宅に帰ってからもお客様からの電話対応で寝る時間がなかったと聞き

ました。本当に辛い状況に耐えて頑張ってくれました。感謝しきれません。

私も担当者がいないお客様を中心に対応のため自宅にお詫びに回りました。

ある方には広い庭を指さし「あの木の傍に梯子があるから登って首をつって死ね」

と言われました。

またある方には「あなたたちの責任じゃないよ。会社が悪いんだ。だから元気を

出して、これからも頼むね。」と言われました。

そして、破綻当日のことも忘れられない想い出があります。

私の拠点でいつも私を陰で支えてくれていた営業の女性がいました。

破綻当日の19:00にお客様と前もってご契約の約束をしていたのです。

約束の時間前に破綻が判明したので当然ご契約はキャンセルされると思っていま

した。ところが「約束は約束。破綻のことは知っているけど約束通り契約するよ。」

と言ってくれたとのこと。

年配の営業担当の方でしたが21:00頃泣きながらオフィスに戻ってきました。

私も思わずもらい泣きをしながら、人間の本質を垣間見た思いでした。

破綻したのに新しい契約?と不思議に感じられる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、新しい契約は転籍先のマニュライフセンチュリー生命での契約受理となる

わけです。

ここから暫くは我武者羅にお客様対応に明け暮れる日々でしたが拠点の誰もが会社

を辞めたいという言葉を言いませんでした。

本当に人間的にも素晴らしい方々でした。

2022.10.16

約41年間の歩みNO.15

 2000年5月31日を迎える前に・・・

1998年は日本の生命保険会社に対して破綻の懸念をもつお客様が増えて

来ていました。

ご多分に漏れず第百生命に対してもそうでした。

ですが私たちは会社が破綻するなんて100%考えていなかった。いや考え

ないようにしていたんだと思います。

ですから新しい保険契約も新人の採用も臆することなく進めて行きました。

いつも通りに活動した結果、私は何と1998年度の全国最優秀営業拠点長に

選出されたのです。当時全国で500店くらいあったでしょうか。

1999年の夏に私は表彰式に出席しました。

1999年4月にマニュライフセンチュリー生命に転籍していたので表彰は日本

ではなくマニュライフファイナンシャル社の本社があるカナダでした。

各部門からの選出者10名ほどだったのでニューヨークでヤンキースの野球

を観戦しセントラルパークを散策し、ナイアガラの滝へ。クルーズ船に乗り

ナイアガラの瀑布を直接浴びる体験も!

今は亡き大橋巨泉が開業した土産店OK・ギフトショップ ナイアガラ店にも

もれなく行きました。

トロントでは2007年までの32年間自立式建築物では世界で最も高い電波塔

だったCNタワーの展望台にも行きました。

有名なグラスフロア!!

大きなガラス張りの床の下には、そのまま真下に地面が見える・・・

高所恐怖症の私は足がすくんで一歩も歩けなかった苦い想い出があります。

でも、一番感動したのは、やはりマニュライフファイナンシャル社の本社

役員室などを見学した時です。

宮殿を彷彿とさせる荘厳な雰囲気に圧倒されました。

私はこんな体験をさせていただけるのは拠点で日々営業活動に精を出して

くれているメンバーのお陰だと心から感謝をしながら日本への岐路に着い

たのでした。

2022.10.15

約41年間の歩みNO.14

 現在の私は個人事業主として活動しています。

本来であれば40歳代で起業したいと思っていました。

ですが1999年の4月に思わぬ事態となってしまいました。

私が在籍していた第百生命がカナダのマニュライフファイナンシャル社

との間で合弁子会社マニュライフセンチュリー生命保険株式会社を設立

したのです。

バブル経済崩壊後の経営不振のため第百生命は営業権を譲渡し既契約の

保全会社になってしまったのです。

営業拠点長をしていた私はメンバーと共にマニュライフセンチュリー

生命保険株式会社に転籍後、契約募集活動を支援しながら第百生命に

ある既存のお客様のご契約を保全活動するという特殊な対応をすること

になりました。

となると世間の風評は冷たいものになってきます。

というのも「保険会社は絶対に潰れない」という神話が1997年から

崩れ始めていたからです。

1997年には日産生命が、1999年には東邦生命が破綻していました。

そして2000年に千代田生命が破綻した時には得も言われぬ恐怖を感じ

たものです。

そうは言っても人間誰しもまさか自分の会社が・・・とは思わないし

思いたくない。

でも、そのまさかが起きたのが2000年の5月31日の夕方のことでした。

2022.10.14

約41年間の歩みNO.13

 私が在籍していた会社は投資財閥として名を馳せた川崎財閥の

流れを汲む生命保険会社でした。

川崎財閥は初代川崎八右衛門によって設立され、徳川御三家の

水戸藩の財政に大いに貢献したとのことです。

そして、日本における私立銀行の草分けとなる川崎銀行を設立。

この川崎銀行は第百銀行と合併し川崎第百銀行となり、のちに

三菱銀行と合併し、現在の三菱UFJ銀行というわけです。

銀行だけでは金融資本として不完全だと判断し日本火災保険、

日華生命保険を立ち上げたとのこと。

この日華生命が福徳生命保険、国華生命保険と3社合併し、

第百徴兵保険となり、1945年、戦後に第百生命に社名が変更

されました。

と、まあ何度も合併で危機を乗り越えて来た歴史があります。

銀行系の生命保険会社ということもあり、当時は珍しく貯蓄

保険が何種類もありました。

例えば、貯蓄保険1件月1万円で5年後にはかなりの利息が

付いてお客様に支払われ、営業の方にも営業成績として1件

としてカウントされて収入にも反映されました。

勿論保障性の高い商品も沢山ありました。

特筆するべきは新商品のパイオニアと呼ばれた商品開発です。

今でこそ当たり前に多くのお客様が加入している医療保障は

第百生命の専売商品として5年間は他社で販売できなかった

と聞いています。

また、ガンの保障にもいち早く対応し、ガンに罹患後死亡

したり高度障害になった場合には倍額の保険金が支払われる

という画期的な商品を販売しました。

私は入社後、この話を聞いて心から誇らしく思いました。

その想いは今でも変わりません。

2022.10.13

約41年間の歩みNO.12

私の生命保険会社勤務での41年間の中で最もイヤだったこと。

それは監査を受けることでした。

今では完全に予告監査となっており、いつ入るかわかっています。

ということは、完全に事前に調べられているので誤魔化し(?)

ができないってことです。

ですが十数年前までは、ある朝突然どこかで見たことがあるような

おじ様がオフィスの前に立っていて、心底驚いたものです。

当時はその時に見つかったものが勝負の分かれ目となり、何かを

しくじると(修正していなかったり、裁断していなかったり・・・)

支社全体に大迷惑をかけてしまう。。。

なので、いつ来てもいいように毎日しっかり準備していれば良い

だけで、心配することでもないとは心ではわかっていても何故か

毎日緊張していました。

特に緊張するのは毎週やってくる日曜日の夕方。

サザエさん症候群というのでしょうか。

心が妙にザワつきました。

そして、当時の上長が教えてくれたこと。

本社監査は大体月曜日の朝に入るから前泊で市内のホテルに宿泊

しているはず。知人を装ってホテルに電話をかけて偵察もしてい

たなあ。

しかも入ってからは夕食にお誘いしたり、コーヒーを出したり、

あの手この手で点数を上げようと必死だったことを思い出します。

もう一つ・・・

今から35年くらい前のこと。

地方支社に財務局監査がいきなり入った!!!

みんな目が飛び出るほど驚き、狼狽えました。

その時、若手男性拠点長がロッカーを背に両手を広げ「ここは

勘弁してください。」と監査官に懇願している様子が私の目に

飛び込んできました。

いけいけどんどん系の拠点長だったので誰しもが「やばい・・・」

と感じていたはずです。

しかし、そんな懇願を許してくれるはずもなくロッカーは監査官

の手によって開けられました。

その時に飛び込んできた光景は・・・

何と!ロッカーの中いっぱいに日本酒が格納されていたのです!

私は不謹慎にも笑ってしまいました。

監査と聞くと今でもドキッとします。と同時に、このお茶目な

映像が私の脳裏に焼き付いて離れません。

 

2022.10.12

約41年間の歩みNO.11

いつ頃までだったでしょうか。

事務員の時は毎月会費を給与天引きで支払い、冬には皆でスキーに

行ったり、 夏にはジンギスカンパーティーをしたり、しょっちゅう

飲み会もあったなあ。

生命保険協会のボーリング大会に出場したり、ソフトボール大会で

優勝したりもしたっけ。

拠点長になってからは拠点のメンバーと親睦会で温泉に行ったり、

ちょっと離れた公園でバーベキューをしたり・・・

仕事だけではない素のお付き合いができました。

そして、毎年恒例の招待旅行!!

一定期間に一定の業績を挙げた方が招待される旅行がありました。

しかも決まって温泉街。

大宴会場での夕餉には時間をたっぷり使って練習して来た拠点対抗

の催し物が次々と披露されます。

そこで繰り広げられる今では信じられない光景!

ある時はお腹が出っ張った年配の男性拠点長がお化粧バッチリで腰

を振ってフラダンスを踊ったり、かつらを被ってお目目パチパチの

お姫様になったりしていました。

そういう衣装を調達するのも営業の方々だったと記憶しています。

凄いエンターテーメントを観せていただきました!

古き良き時代の懐かしい思い出です。

2022.10.11

約41年間の歩みNO.10

研修から戻った私は神戸の状況を気にしつつ、私たちにできること

を必死にやろうと決心しました。

会社全体が業界全体がそんな気運だったと思います。

毎年与えられる年間目標はやって当たり前。できそうにない時は、

新しい人を採用して年間目標をやりきる!これが鉄則でした。

私はメンバーの協力を得ながら徐々に採用にも力を入れて行きまし

た。

当時はまだ男性の入社は不可で幼い子供を養育中のお母さんが次々

と入社してきました。

拠点に夕方子供を連れて戻って来るメンバーが居て私も子供たちと

仲良くなれましたし、家庭の状況も把握することができました。

そして楽しい思い出として一泊旅行がありました。

支社全体の招待旅行だったり、拠点独自の旅行だったり・・・

今はない古き良き時代の風習でした。

2022.10.10

約41年間の歩みNO.9

 少しづつ営業拠点長の仕事が慣れて来て毎日事件はあるものの楽しさや遣り甲斐を

感じるようにもなってきました。

当時、東京の渋谷区野沢に自社の研修センターがあり全国新任拠点長研修も実施さ

れていました。

研修センターは一人3畳ほどの個室が与えられ机とベッドでギリギリだった記憶が

あります。

私が拠点長になったのが1996年8月1日で、その研修があったのが1997年1月。。。

実際何日から始まって何日までだったかは忘れてしまいましたが。

その日はいつも通り研修所の大食堂でテレビの画面を観ていました。

そして、そこに信じられない光景が広がっていたのです。

そう、1997年1月17日(火)5時46分に発生した阪神・淡路大震災。

大火災の様子がテレビ画面いっぱいに広がっていました。

そこに泣き崩れる同期の女性が・・・

神戸の方だったのです。同居している老齢のご両親に連絡がとれず神戸まで帰る

手段も見つからない状況でした。

何とか冷静になってもらい研修所の教官の指示の元、彼女は帰るための準備をし、

他のメンバーは研修を再開しました。

この震災での死者は6,434名。多くの尊い命が失われました。

多くの保険会社で保険金の支払いが迅速に行われたと思います。

ただ、ここで考えさせられた事があります。

万が一、ご遺族の方が保険加入の事実を知らなかったら・・・

万が一、ご夫婦一緒に亡くなってしまったら・・・

保険という商品は請求があって初めて支払いの手続きに入ります。

もし、誰からも支払い請求がなかったら・・・

誰にもお支払いすることができません。

今ではネットで簡単に生命保険に加入できる時代になりました。

でも、信頼できる保険担当者が居てくれたら、万が一受取人が亡くなっていたと

しても亡くなった受取人の相続人を必死で探して手続きしてくれるはずです。

それが本当の生命保険の仕事だからです。

2022.10.09

約41年間の歩みNO.8

 拠点全体のマネジメントができていないと気付いた私はできるだけオフィスに居て

1人ひとりの状況を観察し声かけをして行きました。

毎日試行錯誤を続けながらも不思議と辞めたいと思わなかったのは仕事が好きだった

から。そして、癖の強いメンバーばかりでしたが営業力があって人としても魅力的な

方々だったからでしょう。

仕事上も人生においても勉強させていただく事が山のようにありました。

勿論かなりの洗礼も受けました。既に詳細は忘れてしまっていますが・・・

そして、その頃の私が身に付けた特技があります。

私のすぐ近くで私の悪口を言われても全く聞こえなくなりました。

ですが、凄く遠く離れた所に居るメンバーが何かに困っている様子は手に取る様に

わかり、会話も聴こえるのです。

これ、本当です!

今はこの能力も少し衰えてしまっていますが・・・

2022.10.08

約41年間の歩みNO.7

 営業経験ゼロの私が営業拠点長になり年上の生保レディと共に無謀な挑戦がスタートしました。

私の上長が居るオフィスとは車で10分くらいの距離だったので毎日直接活動報告をしに面談してもらっていました。

上長の私への関りはコーチングそのものでした。

今から27年前のことです。

「どういう組織にしたいのですか?」

「そういう組織にするために、何が必要ですか?」

「必要なものを得るために、どんなアイディアがありますか?」

「アイディアの中から今一番重要だと思えるのは何ですか?」

「それをやるために障害になることはありますか?」

「何から始めますか?」

「それをした時にどんな気持ちでしたか?」

などなど・・・

私は毎日自分で言語化した行動計画を実践しては報告し、また内省を促され自問自答しながら計画を進めて行きました。

その計画の一つが職域訪問です。

当時期間限定で一定の病院での団体保険募集が解禁されており私は職域担当者数名と毎日同行訪問で営業活動を一緒に実施すると決めました。

契約が決まれば毎日朝礼で結果報告してもらいグラフに赤やピンクのバラを貼って称賛しました。

(過去の営業オフィスのあるあるですね!)

私は営業担当者と一緒に行動することで心の距離を縮めたいと考えていたのです。

一定の成果が出ていたので上長に報告した後の問です。

「その活動は拠点全体にどのような効果をもたらしましたか?」

・・・ああ、確かに・・・

暫く答えることができませんでした。

職域担当者数名との営業活動に必死だった私は拠点に居る時間が少なくなり他の営業担当者への配慮に欠けていたことに気が付いたのです。

2022.10.07

約41年間の歩みNO.6

 私は35歳の夏に営業拠点に落下傘部隊の如く営業拠点長として赴任しました。

その時の長男の年齢は3歳半で二男が2歳。

オファーを断るという術を持てなかった私は当然のように引き受けます。

着任時の陣容は12名だったと記憶しています。

事務員さんも含め、ほぼ全員が年上の人生経験豊富な女性ばかり・・・

営業拠点名は花園支部!(ある意味、本当に花園でした。。。)

完全アウェイでのスタート!

着任前の研修もない状態だったので何から始めたら良いかもわからず・・・

ただただ一人ひとり個別面談をして話を聴くことに徹しました。

無我夢中で話を聴いているとアッと言う間に夜の8時9時に・・・

ですが不思議と充実感に溢れていました。

ここから私の孤軍奮闘のドラマが始まりました。

そして、この時の上司の私への関りこそがコーチングだったのです。

2022.10.06

約41年間の歩み NO.5

 生命保険営業は金融庁に登録されて初めて保険募集ができる仕事です。

私が入社した頃は初級過程試験と言っていましたが現在は一般過程試験と言います。

その一般過程試験を受験する前に所定の研修を受ける必要があります。

その研修をする教育担当という業務に就いたのが入社8年目のことでした。

私は一応教員免許を取得していたので人に何かを教えることに抵抗はなく、むしろ天職と思っていたほどです。

全国では事務職から女性が教育担当に次々に登用されて行きました。

立場として事務職でもない、営業職でもない、ちょっと中途半端なポジションだったかなと思います。

私はこの業務を担当し、より営業の方々と密接に関わり、生命保険の本質を深く学んで行きました。

この業務は通算6年半担当しましたが、この間に私は息子を二人出産しました。

産前6週間、産後8週間の休暇は専業主婦を経験したことのない私には毎日がパラダイスでした。

産休明けにすぐ職場復帰しましたが、私の両親も夫の両親も夫も子育てにとても協力してくれました。

その協力がなければ家庭と仕事の両立は困難を極めていたことでしょう。とても感謝しています。

毎朝二人の息子を車に乗せて託児所に預け、残業を終えてから実家に迎えに行くルーティーンが何年続いたでしょうか。

今となっては懐かしい思い出です。

そんな日々が激変したのが私が35歳の夏でした。

2022.10.05

約41年間の歩み NO.4

職場での人間関係が少しづつ好転して行った私は、ますます仕事に打ち込みました。

新しく担当したのは新契約という業務でした。

営業の方々が夜遅くまで活動してお預かりして来た新しい契約申込書を査閲して本社に

送付する業務です。

25日の締め切り前3日間は山のように積まれた申込書を目の前に脇目も振らず査閲

して気が付いたらいつも夜が明けていました。

家で2時間ほど仮眠して、また会社へ・・・

今でしたら労働基準監督署が黙ってはいないと思いますが当時はよくある話だったと

思います。

今思えば、その頃の私はまだまだ勘違いしている所があり、年配の営業担当の方々に

どうでも良いような申込書の不備を指摘して煙たがられていたように思います。

私はただ、生命保険という社会的に意義のある商品を販売している以上はどんなに

些細な不備も見逃してはいけないと使命感に燃えていたのです。

今ではオンライン面接や端末での申込みなど営業の形が大きく変わりましたが当時は

紙媒体が殆どで営業の方々は大きなカバンを2つも3つも持ち歩き、本当に大変な

状況のなか、ご契約を預かって来てくれました。

そういう営業の方々の苦労のお陰で私はお給料をいただけていることだけは理解して

いたつもりです。

もっと感謝の気持ちを言葉で伝えておけば良かったと今更ながらに反省しています。

2022.10.04

約41年間の歩み NO.3

虐めにあっていた私は自分で自分を認めることができず、どんどん卑屈になって行きました。

ですが元来負けず嫌いな私は周りに悟られないよう仕事を我武者羅に頑張ることで精神を保っていたと思います。

そんな状況が続いていましたがある時パートで入社して来た年上の女性が私を支えてくれました。

昼食休憩も一緒に過ごしているうちに私は彼女に信頼を寄せ、自分の想いを語っていました。

彼女はただただ黙って私の語りを受け止めてくれました。

数日そのような状況が続いた後、彼女はポツポツと私に問いかけてくれるようになりました。

私自身の将来のこと、理想の組織、仕事に対する想い、何故虐めに遭ったと思っているかなど・・・

それまでの私は自分自身を振り返ることもして来なかったことに気が付きました。

よく考えると、彼女は決して答えを求めては来ませんでした。

ただただ、私自身と向き合ってほしいと思って問いかけていたと後日教えてくれました。

時間はかかりましたが彼女のお陰で凍り付いていた私の心が溶け出し職場の仲間に対して

素直な態度で接する事ができるようになりました。

人間関係でのトラブルはどちらかが100%悪いなんてことはないと思っています。

相手が100%悪いように見えても、相手に対してちょっとした配慮が欠けていたかも知

れない。伝えたつもりでも伝わっていなかったかも知れない。

意思の疎通は難しい。

だからこそ意識して人に接して行きたいと彼女に教えてもらったと思っています。

2022.10.03

約41年間の歩み NO.2

入社して半年もたつと、私は会社に行くのが楽しみになっていました。それは職場の雰囲

気が良かった事と少しづつ仕事自体が面白くなって来たからです。数年後には支社長から

ロータリークラブの子供組織であるローターアクトクラブへの参加を促されました。

訳もわからず入会したその組織で私は大きな学びと友を得る事ができました。

ただ、何故私に支社長は白羽の矢を立てたのか・・・それは単に自宅が近かったというだ

けのことでした。

ですがこの入会が私にとって社内の空気を乱す要因になっていたことに気付いたのは数年

後のことだったのです。

当時、先輩も含め女性事務員だけでも10名くらいいて、しかも有能な女性で超美人ばか

り・・・

基本的に鈍感な私は陰で何を言われているかなんて気にもとめていませんでした。

ところがだんだん先輩も同僚も私に対する態度が変わり、話しかけても無視されるように

なりました。

流石の私も少しづつ気付き始めましたが何をどうすれば良いのかもわからず・・・誰にも

相談できずに悩みが深くなって行きました。

実は高校生の時にも女友達から虐めを受けた経験があったので「またか・・・」と思いま

した。

虐めを受けると、やり場のない息苦しさを覚えます。それまで仲が良ければ良いほど、あ

る日突然手のひらを返された時の衝撃は心臓が飛び出るほどでした。

私はこの高校生の時の虐めからは完全に逃げました。正面から立ち向かう勇気も覚悟もな

かったからです。

ここで逃げたツケが社会人になってからの虐めに繋がっていると思っています。

人生に乗り越えられないことはないからチャレンジしなさい、と・・・

中途半端にしていることは人生のなかで必ず繰り返されるのだと悟りました。

2022.10.02

約41年間の歩み NO.1

今日から私が前職で経験してきたことを徒然なるままに書き綴ってみようと思います。

私は短大卒業後、自動販売機を扱う会社に事務員として入社しましたが、その会社を4ケ

月で退職してしまいます。

何故か?理由は仕事が暇だったから。毎日毎日4大卒の男性と電話の取り合い。たまに定

型の稟議書を書き、そしてトイレ掃除。

それなのに毎月いただけるお給料は結構な金額でした。

何か違う・・・このままこの会社に居て良いのか焦燥感にかられ転職を考え始めた頃に前

職の生命保険会社に出会いました。

その出会いは何と新聞の求人広告。当時は新聞に多くの求人広告がありました。

私は迷うことなく生命保険会社の事務員募集に応募し筆記試験を受けました。

何故生命保険会社だったのか・・・

今思えば明確な理由は思いつかないのですが金融機関に一種の憧れを抱いていたのでしょ

う。筆記試験に無事合格し、最終面接に3人が残ったのを覚えています。

私の何を気に入ってもらえたのか未だに不明ですが私の推測では自宅が近かった事と高

校・短大と5年間バドミントンをしてきた体力を気に入ってもらえたのではないかと思っ

ています。

何せ超ハードな勤務が待っていましたから。

入社直後に配属されたのは地方支社バックオフィスで経理担当。全く意味不明な用語に悪

戦苦闘しながらお局様的先輩の指示に従い毎日ビクビクして過ごしていた頃が妙に懐かし

く思い出されます。

ですが、ここで厳しい指導に苛まれながらも乗り越えた経験がここからの長い職業人生に

大きな影響を与えたと言って

も過言ではありません。

そして、ここからが私の長い生命保険会社でのドラマがスタートしたのです。

2022.09.24

ビジネス

本日は多分5年ぶりくらいにSMIクライアント大会のスピーチをオンラインで聴きました。

「SMIって何?」と思う方がいると思いますので簡単に説明しますと・・・

アメリカの自己啓発作家であり教育家のポールJ.マイヤーが創立した自己啓発プログラムが代表的であり、

世界80ケ国以上で活用されています。人の潜在能力を開発し心構え(思考)と行動を変えるプログラムです。

私がこのSMIに出会ったのは今から18年くらい前でしょうか。

当時の私は外資系生命保険会社に勤務しており(入社時のD生命から転籍)通算23年になっていましたが

私の職業人生で最大の挫折を味わっていました。

それまでの私は順調にキャリアを積んできていると自負していました。

その時の私は拠点運営をしており、業績も陣容もそれなりに安定していましたがある日突然の降格・・・

失意のまま1年過ぎた頃にSMIの営業マンが朝礼で「目標設定の大切さ」を説いてくれました。

カラカラだった私の心に妙に染み入ったのを覚えています。それを転機に私はSMIを学び始めてみました。

「人は心構えを変えることによって、自分の運命を変えることができる。」これはポールJ.マイヤーの言葉

です。つまり、「心構えこそ全てだ!」と言っています。

私は自分自身の内面に向き合い、自問自答することで「他人事の世界」から「自分事の世界」に戻れたのだ

と思います。

また、その時々に起きる自分にとってマイナスと思えるようなできごと・・・

それは偶然ではなく必然であり、自分自身の成長に繋がるのだという考え方もこの頃に身に付けたと記憶

しています。

私にとってSMIの考え方は学びの原点であり、キャリアコンサルティング、キャリアカウンセリング、

ビジネスコーチング、ライフコーチングなどを実施する上で欠かせない私の軸になっています。

今日からまた心新たに自分自身のビジネスを展開して行く心構えができました。