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2022年11月

2022.11.20

約41年間の歩みNO.50

2021年3月31日に40年8ケ月勤めた会社を退職しました。

多くの方からお花やポーチやハンカチや日本酒など送別の記念品をいただき

心から感謝しています。

オフィスを離れる時は流石に寂しさがこみ上げてきました。

私としては本社で退職を迎えるものと思っていましたが今となっては北海道の

人間として札幌で会社員人生最後の時を迎えられて良かったと思っています。

そして私は翌日からは失業者となりました。

待機期間を経て失業給付を受けることに。

これもまた人生で初めての経験でした。

失業してすぐの4月初めに釧路で入院していた義母が亡くなったのです。

送別会を企画してくださっていた方々に丁重にお詫びして釧路に帰りました。

旭川の方々にはコロナ禍の中でしたが3月中に送別会をしていただいていま

した。

集合写真は私だけマスクを外していますが皆さんはマスクのまま・・・

私だけ大変失礼しました。

義母は数年前から施設に入り食事療法でスマートになっていました。

その上大病を患っていましたが安らかな綺麗な顔で眠っているようでした。

義母には子供たちのことで本当にお世話になり感謝の念でいっぱいです。

そして7月に私の父も亡くなったのです。

父も入院していたので会える状況ではなかったのですが亡くなる前日に私は

丁度釧路に戻っていて10分間だけ面会を許されたのです。

私の長男と2人で父のベットの横に座り、もう話もできず仰向けに寝た切り

の状態の父の手を握っていました。

と、その時です。

父が力の限り私の手を握り返してくれたのです。

私は驚いて「父さん!父さん!」と大きな声で呼びました。

父は一瞬パッと目を開いて私を見てくれたのです。

私は「あー、大丈夫だ!まだ大丈夫!」と嬉しくなりました。

約束の10分が経過し、「また来るね!」と父に伝え母が待つ実家に行って

父の様子を伝えました。

そして、翌日、父が息を引き取ったのです。

2022.11.19

約41年間の歩みNO.49

私は5人姉妹の5女として北海道阿寒町の片田舎に生まれました。

両親は酪農や農業を営み、経済的には決して裕福ではない家庭でした。

両親は家業を継いでくれる男の子が生まれることを望んでいましたが5番目

も女の子・・・

母は大きく落胆したと物心がついた時に直接私に言っていました。

産まれた直後は橋の下に本当に置いてこようと思ったらしいです。

その後両親は占いをみてもらい「お宅には男の子は生まれません。」とハッ

キリ告げられたことで諦めたようです。

もし両親が本当に橋の下に置いていたら私の人生は全く違うものになってい

たかも知れません。

とはいえ、その後の私は5女の末っ子として家族から甘やかされ、可愛がっ

てもらったと自覚しています。

そんな私はいつの頃か「私は何のために生まれてきたのだろう?」と思うよ

うになりました。

決して何かに悲観してのことではありません。

自分には生まれてきた意味があるはずだと思うようになったのです。

なので人生の時々に起きたネガティブな出来事にも「この出来事を違う角度

で捉えたらどうなるだろう?」と知らず知らずのうちに自問自答している私

がいたのです。

その出来事を乗り越えた先には私自身が成長を実感できる出来事が待ってい

ました。

そして、信念を持って願えば必ず描いた夢は実現することも体験しました。

SNSで偶然出会ったライフコーチング!私は「これだ!」と確信しました。

私が知りたかったことがこのロジカルに体系立てた12ステップコーチング

に凝縮されていました。

現実の世界とスピリチュアルの世界が丁度良いバランスで成り立っていまし

た。

私は心の赴くままにポチっと申し込みをしていたのです。

2022.11.18

約41年間の歩みNO.48

退職を決めてからの月日の流れは本当に早かった!

退職後のことを考えて、今から準備できることを探しました。

まず、何をするか。

どこでするか。

誰とするか。

自分勝手に色々妄想しながら準備を進めて行きました。

まずは何をするか・・・

私は約41年間も生命保険業界にいて、人に多く関わってきました。

そして、多くの人の話を聴いてきました。

仕事のこと、人間関係のこと、経済的なこと、身体のこと、健康のこと。。。

本当に様々な悩みや問題を抱えている方が多かったですし、自分だけでは問題

を解決できない人も多かったと思っていました。

これからの人生はこういう方々の心に寄り添い、対話を通して内省を促し自問

自答のなかから本人が答えを見つけ行動に変えて行くキャリアコンサルタント

やコーチとして対人支援の仕事をして行きたいと自然と思えたのです。

早速キャリアコンサルタントの国家資格を得るための講座に申しこみました。

キャリアコンサルタント養成講座は教育訓練給付制度(専門実践)の指定講座

のため合格したら学費が最大70% 還元されます。

私は札幌の通学コースを選んだので住む場所も自然の流れで決まりました。

そしてもう一つ・・・

対人支援をしていて感じていたことがあります。

理屈では片づけられないような不思議な出来事だったり力だったり・・・

ある時偶然SNSで見かけたライフコーチングが気になっていました。

その後も何度も何度も見かけているうちに一度しっかり読み込んでみたのです。

そこには私の心が求めていた内容が書かれていました。

2022.11.17

約41年間の歩みNO.47

 旭川営業所に通い始めて7ケ月目の中旬だったでしょうか。

その日は札幌支社での業務で札幌のオフィスに出勤しました。

8時30分前にパソコンの電源を入れてメールを確認していると衝撃的な通知文

が目に飛び込んできたのです。

なんと希望退職制度!!

役職者も含め45歳以上の職員全員が対象となっていました。

年齢や勤続年数別に条件は違いますが割増退職金が支払われると記載されていま

した。

私は65歳まで3年3ケ月残っていました。

ただ、65歳まで在籍した後に新しいことにチャレンジするのはどうか・・・

期限まで2週間です。

何度も何度も自問自答してみましたが答えは出ていたのです。

ですが約41年も勤めた会社を簡単には辞めたくはない。

そして、旭川営業所のことも気になりました。

私が退職することで営業所閉鎖の不安が加速するのではないかと悩みました。

そして期限の前日の日曜日、翌朝が大雪警報のため旭川に前泊させてもらうこ

とにしました。

その前に会社に寄って、誰も居ないオフィスで心を静めて早期退職の提出をし

ました。

不思議なくらい冷静に提出できたのは不思議でしたが・・・

実は10年くらい前から起業の夢をもっていました。

会社の看板に守られて来た私は勇気が無かったのだと思います。

現実は厳しいのです。

ですが会社が苦しいこの段階で私の決断が少しの役に立つのなら・・・という

気持ちもあり、勇気を出すことができたのだと思います。

最終日の3月31日まで有休も取らずに勤め上げることを心に誓い、1日1日

を噛みしめるように会社に通いました。

改めて、幸せな41年だったと心から感じていたのでした。

2022.11.16

約41年間の歩みNO.46

札幌支社の営業課長としての役割で最も重要だったのが旭川営業所のサポート

でした。

旭川営業所には事務担当者はいましたが拠点長は不在だったのです。

私は何とか旭川営業所の方々が少しでも安心して仕事ができるように毎週2日

間びっしり関われるように通いました。

1日目は朝6:35の列車に乗るために5時起きでした。

8時に旭川駅に着き、事務担当者が私を車で会社に連れて行ってくれました。

9時から朝礼が始まります。

皆さんは朝礼前に会社に着いてそれぞれの仕事の準備をしています。

私はその日の朝礼で使用する資料を準備したりしながら皆さんの様子を観察

していました。

お客様からご契約をお預かりして喜んでいる方、契約の保全で書類の整理を

している方などなど・・・

その表情が明るかったり暗かったりしていることがあります。

何か気になる表情だったり態度だったりする時は朝礼後にさりげなく声をか

けてみます。

体調面だったり精神面だったりの悩みを抱えていることもあります。

そういう変化を見逃さないように心がけていたつもりでした。

ですが、退職希望のサインを見逃してしまうこともあり、悔しい思いもした

ことを記憶しています。

1日目はホテルに泊まるため仕事は最後の営業担当者がオフィスに戻る20

時か21時ころまでは会社で仕事をしていました。

古い考えかもしれませんがオフィスに戻る営業担当者が居るのに自分だけ先

に帰れなかったのです。

そして翌日も朝礼をし、新人研修、個人面談、顧客訪問、採用面接などをし

て6時頃の列車で札幌に戻るというルーティーンを送っていたのでした。

2022.11.15

約41年間の歩みNO.45

北海道に戻った私は札幌支社の営業課長というポジションでした。

その頃同じポジションに私を含め3名いました。

北海道は広いですし組織構造が複雑になっていましたので3名だったのかな

とは思いましたが正直3名も必要なのか疑問もありました。

とはいえ、私の業務も多岐にわたっており呑気にしている時間はありません。

まずは新人育成状況の改善が急務だと感じました。

生命保険営業は最低限の業績を挙げないと会社に在籍することができないの

です。

新人には2つの査定基準が用意されていましたがコロナ禍の対応として緩和基

準が設けられていました。

その内容がなかなか複雑で札幌支社スタッフの中でも正確に理解している人が

いない状況でした。

ですがそんな事を言っていられません。何故なら査定は待ったなしですから。

スタッフのミスで新人の査定が通らなくなったら死活問題です。

私はこの査定問題を第一優先課題として取り組みました。

当時対象新人が20名くらいだったでしょうか。

1人別にシートを作成して徹底的に管理体制を敷きました。

勿論新人本人にもユニットマネージャーにも理解し把握してもらう為にシート

にコメントを付けて月初と月末に配布しました。

お陰で査定ミスで降格するような事態は避けられましたが問題は査定が通れば

食べていけるかということです。

お客様に対して最高の対応をして行くためには営業担当者自身が最高の心の状

態であることが望ましいのです。

ですが経済的に余裕がないと、どうしてもベクトルが営業担当者自身に向いて

しまう。つまり「俺のため(私のため)にこの保険に入って欲しい・・・」と

潜在意識が叫んでしまうのです。

そうならないためにも一定の期間はその方に見合った初期補給金が設定されて

いました。が、営業するには必要経費がかかります。

その認識が薄いと「こんなはずではなかった・・・」となりかねません。

精神的にも経済的にも窮地に立たされた営業担当者を多く見てきました。

そこから抜け出せるのは決して諦めない心構えと生命保険の意義役割にコミッ

トしお客様のニードを把握する傾聴力がある営業担当者だと確信しています。

2022.11.14

約41年間の歩みNO.44

本社に戻って半年が経過した頃に新人教育の在り方が大きく変わろうとしていました。

入社月に実施している研修が全員が一斉に研修を受講するスタイルから反転学習といって先に動画を視聴して予習してから集合研修を実施するというものに変わろうとしていました。したがって動画を視聴してこないと研修についていけないということです。

その研修スタイルそのものは効果的だと感じていました。

しかし、新人教育を主導する方を外部に依頼し全面的に変更するということでした。

この変更によって翌年からの全国本社集合研修は廃止となり、私はその変更内容を何とも複雑な気持ちで受け取りました。

11月中旬には翌年の人事異動が発表され、私は今までの教育Gから市場開拓Gに異動のオファーを受けたのです。

それは私自身の生命保険業界歴約41年の歴史に幕を閉じる前触れだったように思います。

翌年から市場開拓Gとなりましたが教育Gでの引継ぎが未了だったので2月中旬までは教育Gの仕事をしていました。

2月中旬からは市場開拓Gの仕事にシフトして行きましたが・・・

私は何とも馴染めないのでした。

メイン業務は「相続」でしたが明らかに会社として力を入れていない様子。

何とか軌道に乗せようと前任者のデータを読み込んでいると、防衛省のセミナー講師の依頼が舞い込んできました。

プレゼン内容は私でも問題なくできると思い独自で練習を開始しました。

ところがそんな矢先に世界的なコロナ禍で予定していたセミナーが中止に。

そして、私にとって初めての業務として業者との間で取り交わす契約書の作成をすることになり、悪戦苦闘しながらも最後に法務部の許可を得て社判を押印してもらえた時には大袈裟ですが心から晴れやかな気持ちになったものです。

やれやれと思っていた矢先にまたまた異動のオファーが・・・

6年ぶりに北海道に異動することになったのでした。

2022.11.13

約41年間の歩みNO.43

横浜をあとにして再び笹塚の本社に戻りました。

今度の業務も新人育成でした。

基本の業務は笹塚の本社で、新人研修は新宿の研修所に通いました。

私の好きな仕事に入社3ケ月間の業績全国NO.1の新人にインタビューをして

記事にまとめ全国の拠点に配信するものがありました。

生命保険の仕事はそれまでの人生に対して通信簿をつけられるようなもの

でもあります。どのように人間関係を構築してきたのかが問われる時もあ

って精神的に追い込まれる人も多く見て来ました。

なかには他社から転職してきた方もいましたが全くの未経験で全国NO.1

になった方も多くいました。

そういう方に電話でインタビューをして喜びの声を聴くことは私にとって

本当に贅沢な時間だったと感じています。

その感動的なストーリーを聴いて思わず涙が零れることもしばしば・・・

その方のユニットマネージャーにもお話を聴き、ユニットマネージャーの

献身的な支えがあっての結果でもあったと感じたものです。

拠点長からもお話を聴きました。今後の拠点の繁栄に欠かせない人材に育

って欲しいとの願いが籠った熱いコメントでした。

新人が育って行く背景には新人が持って生まれた能力もありますが環境も

大きく影響してきます。

そして何より、この生命保険という仕事にどれだけ心を砕けるか。

また、入社した会社を愛し、販売する商品を愛することができるか。

勿論、販売プロセスは大事です。

ですが敢えて会社と商品を愛して欲しいと伝えたい。

何故かというとお客様に自信をもって伝えられるからです。

そしてお客様にその自信が伝わるからです。

やはり入社初期の教育が重要だと思っています。

毎月生命保険の仕事に賭けて入社してくる新人が多くいることでしょう。

どうか生命保険の仕事の意義役割を心に刻み、会社を愛して商品を愛して

邁進して行って欲しいと心から願っています。

2022.11.12

約41年間の歩みNO.42

本社3年目の終盤に思いもよらないオファーが舞い込んできました。

何と私に横浜支社の拠点長を担当するようにとのことでした。

一瞬私は頭が真っ白になり、この時ばかりは即答できませんでした。

今までの私は一も二もなく返事をしていましたが一晩考えることに・・・

やはり年齢のこと、体調のことを考えると正直キツイかなと・・・

一晩考えて、引き受けることにしました。

営業拠点の人事異動のオファーは断ることもできます。

ですが11月も最終週になってからのオファーは先に何人かに断られたの

かも知れないと想像ができました。

切羽詰まったこの時期に私が断ると、また振り出しに戻ってしまいます。

それは私のポリシーに反すると考えたのです。

変なところに義理人情が働くのです。

私をここまで働かせてくれた会社に何か恩返しがしたいとずっと思ってい

ました。

勿論、私が受けたからといって、上手く経営ができるとは限りません。

ですが恐らくは営業拠点長としては最後のチャレンジになるであろうとの

想いもあり、清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちで受けさせていた

だきました。

着任後全員と個人面談をして拠点の課題を浮き彫りにしました。

私が思ったのは1人1人の自己効力感が低下して、能力があっても発揮で

きていないような感じでした。

私はまずは1人1人の自信を取り戻したいと思ったのです。

そこに居たメンバーの多くは心が純粋で素直な方々ばかりでした。

そしてユニットマネージャーも管下のメンバーに献身的な方々でした。

私はできるだけ多くの時間をメンバーに関わり、それぞれの想いを受け止

めたいと必死でした。

そして多くの知識やスキルを身に付けていただきたいと思い、地区本部や

本社から朝礼時のゲストとして来ていただき、貴重なスピーチや勉強会を

お願いしました。

メンバーにも継続的に得意分野の勉強会を担当していただき、拠点全体の

業績向上にも寄与していただきました。

採用活動にも力を入れました。

採用媒体はあまり好きではありませんでしたが使ってみることにしました。

かなり多くの方々を面接しましたが両者のニーズがマッチせず効果を感じ

ることができませんでした。

このように失敗も多くありましたが私の中で充実した1年を過ごすことが

できました。

ほんの1年で本社に戻ることになりましたが私にとっては2年にも3年に

も感じる中身の濃い1年だったと思っています。

最後に全員で送別会を開いてくれました。

私は最後のスピーチで体中の水分が全部出てしまうほど泣いていました。

私は本当に横浜のメンバーが大好きで離れるのが寂しかったのです。

2022.11.11

約41年間の歩みNO.41

3週間後に無事退院することができホッとしました。

退院後は食事の支度も大変だからと同僚がお惣菜をお母様に作ってもらって

持ってきてくれたのです。

その時食べたひじきの煮物やきんぴらごぼうの味が今でも忘れられません。

数日休んで仕事に復帰しました。

退屈な入院生活と違って会社に居る自分はイキイキとしていることが実感で

き、自分の居場所を再確認しました。

とは言っても入院当初の1週間はベッドに寝た切り状態でしたが喀血が収ま

って貧血の数値が徐々に改善されてきた頃には本を読む余裕も出てきました。

長男に頼んで数冊の本を買って来てもらいましたがその中の一冊に佐藤愛子

さんの「九十歳。何がめでたい」というエッセイがありました。

何度読み返しても面白い!なんともウィットにとんだ表現はゲラゲラ笑って

とても元気が出るものでした。

老いることを楽しんでいるようにも思えて読み手の私もつい応援したくなる

チャーミングな愛子センセイです。

このエッセイを書いたのが93歳ですから現在は何と99歳!!

私も80歳までは働きたいと思っていましたが100歳まで働くことも夢で

はない時代に突入したのかも?と本気で考えている今日この頃です。

私も少しでも誰かに影響を与えられる存在になりたいと決意を新たにしまし

た。